アイウィル 社員教育 研修日程

染谷和巳の『経営管理講座』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「経営管理講座 322」   染谷和巳

 

 

泣ける国語力の低下

経営管理講座

 

漢字配当表の問題に続いて、熟語などの言葉の遣い方全般の問題。「言葉なんて通じればいい」が支持を得ている。そのほうが言葉を勉強しなくていい、覚えなくていい、楽だからである。「国語は国家である」という名言も霞む。各界の指導者、学校教師は国語力を伸ばしていくべし。

 

 

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言葉に鈍感な人は表現力不足

今年八月十五日の敗戦の日に発表された「戦後七〇年安倍首相談話」は四〇〇字詰原稿用紙十枚の長文であった。

長文であるだけに総花的で、敵からは焦点が絞りにくくていいが、これは日本国民に向けて発せられたものである。私も含めまわりの人は感動することなく、何だかよく解らなくて狐につままれたような顔をしていた。

とはいえ、五〇年の村山、六十年の小泉の談話と比べると、この談話は敵に攻撃されないよう用心深く練り上げ熟考された跡が見られる。朝日新聞は根拠を示さずに「この談話は出す必要がなかった」と評したが、これは悔しまぎれの捨てぜりふであり、どうしてどうして“歴史に残る”立派な談話であった。村山と小泉の談話の毒を薄めることができたという点で大きい価値がある。

一つ気になる欠点がある。

ライターの端くれの私から見ると、談話はまん中の原稿五枚目あたりの「?この不動の方針を、これからも貫いてまいります」で終わればよかった。

後の半分は蛇足であり、言い訳であり、関係諸国に対する卑屈なおもねりであり、カットしたほうがよかった。

内容もさることながら、後半四百字四枚の原稿は「胸に刻み」のオンパレードである。

わずか一五〇〇字の文章に「胸に刻み」が六回、それを同じ意味の「心に留め」「思いを致さなければ」と合わせると八回も使われている。

“胸に刻む”は忘れずにしっかり覚えておく意味である。「深く反省して決して忘れません」と八回も述べているのである。主語は「私たちは」で日本国民である。

国民は過去の歴史に真正面から向き合わなければならない。中国人の虐殺、韓国人慰安婦、敵国捕虜の残酷な扱い、にもかかわらず戦後これらを許し支援の手を差しのべてくれた諸国の寛容を“胸に刻み続け”なければならないとくどくど述べている。

前半で毅然とした口調で述べた輝かしい日本の歴史と先の大戦の苦い回顧と比べると別人の原稿のように思える。

“繰り返し言葉”が効果を発揮するのは散文詩などの分野に限られている。作者が意図して強調する場合以外、特に熟語は繰り返し使わないものである。

その意味で後半は学生の下手な作文レベルで、格調に欠け説得力がない。

「文章は内容が第一だ。言葉尻をとらえて批判するのは邪道ではないか」と言う人がいる。

内容は一つ一つの言葉のつながりでできている。よって一つ一つの言葉が大事なのである。適切に効果的に言葉が使われれば内容が光ってくる。言葉が外れていたり軽かったりすれば、言わんとすることは解るが胸に響かない。

今「胸に響く」という表現を使ったが、このように人の体の一部を使った成句はごまんとある。

胸を張る、胸が痛む、胸騒ぎ、手の平を返す、手に汗を握る、腕が立つ、足が地に着かない、背に腹はかえられない、目にものを見せる、爪に火をともす…。

日本語は世界で最も語彙〈ごい〉が豊かな言語である。文章をその豊かな言葉を縦横に駆使して内容を深め高める。これができる人を「表現力がある」という。

「胸に刻み続ける」という、迫力のないぼやっとした言葉を何回も繰り返して使うというのは表現力不足の証しである。

この談話作りには宮家邦彦氏らが委員会を作って案を練ったと聞くが、こうした言葉尻の点までは気が回らなかったか。瑣末〈さまつ〉なことで指摘するのを恥じたのか。

「安保拡大法案」反対デモ隊のプラカードの文字が表現力欠如を物語り、マイクを持っている人は、最近日本に増えている「まじでー」「やばい」しか知らない文盲の子供と同じで「うざい」「死ね」という言葉しか発しない。

敵がかくある時に、みなが惚れ惚れする文章を提示すれば、敵はすごすごと尻尾を巻いたのに。

言葉に敏感な“言葉の番人”たち

有名な言語学者が「言葉の乱れなど問題にすることはない。正しい言葉遣いなんてないんです。今遣われている言葉が正しいんです、ガハハハ」と豪快に笑い飛ばしていた。

これに勇気を得て日本国民全員が言葉を軽く見るようになった。神経を使わなくなった。

こんなに優れた言語を持ちながら、こんなにその価値を認めない時代はかつてない。経済も科学も政治も言葉で成り立っているのに、その基礎が言葉にあることを知らない、認めない当事者ばかりなのだ。言葉に鈍感な学者や政治家ばかりなのだ。

こうした世の中で唯一“言葉に敏感”で細心の神経を使っている人がいる。

この九月に「ザ・鬼上司」(プレジデント社)という本を出した。

その中で「酋長」という言葉を使った。これは差別語だからと出版社は「部族長」に変えた。変えられたことに不満はない。だが差別語が範囲を広げていることに不愉快が高じる。

中東にアラブ首長国連邦という国名の国がある。アラビアの七つの小部族が集まってできた国である。よって元は「酋長国」「土侯〈どこう〉国」であった(アラビア語のアミールは酋長あるいは土侯と訳されていた)。酋長はいけないということで首長に変えた。未開部族を土人と言い、そのリーダーを酋長と呼ぶのは相手を侮辱することになるという理由で変えたのだ。

平成十二年の「上司が鬼とならねば部下は動かず」では「浮浪者」を「ホームレス」に変えられた。

浮浪者が差別語でホームレスはいいという根拠が解らない。文中では浮浪者のほうが感じが出ていてピッタリなのにと思ったが。

出版社、新聞社、テレビ局などは言葉に気を遣う。差別語、禁止語が紛れ込まないように。

ただこうしたメディアは“自主規制”であり、差別語を遣ったからといって犯罪者になるわけではない。

ではなぜ神経を使うのか。“言葉の番人”に噛みつかれ、騒がれ、「訂正しろ」「謝罪しろ」「さもなければ訴える」と攻められるのがいやだからである。一度噛みついたら離れない狂犬のようにしつこい相手なので関わりたくない。そのため自分は自主規制している良心的業者であることをアピールし続ける。

言葉の番人なんているのか。

四十年前私は「燃えるセールス」という営業マン向けの教材を作った。本屋で売るものではなく、会社に直接販売するもの。

手紙が来た。差出人は「◯◯の人権を守る会」。

「テキストの何ページの何行目に“土人に靴を売る”とありその後にも二度土人という言葉が出てくる。明らかな差別語であり著者の見識を疑う。すぐ訂正し、訂正したものを提示せよ。もしそうしないなら提訴する」。

私は驚いた。提訴するという脅しにではない。市販されていない営業マン向けのテキストをチェックして差別語が遣われていないか探している“人間”が存在しているということにである。

その時から言葉に神経を使う“言葉の番人”が日本中のアチコチに潜んでいることを知った。

シャーロック・ホームズが虫眼鏡で証拠を探すように、差別語を探している人がいる。また差別語使用の情報を集めて、それをネタに正義の活動をしている人がいる。

政治家や学者、保護者や一般社会人もこれくらい言葉に敏感になり、言葉に神経を使えばいいのにと思った。

社長の国語力が優劣を決める

毎度「ありがとうございます」の話で「またか」と思うだろうが聞いてほしい。

コンビニで「毎度ありがとうございました」と言われて泣きそうになった。会合の最後に「本日はありがとうございました」という挨拶を聞くと「やれ、やれ」とがっかりする。顔がこわばる。

感動したことが二度ある。

二度とも葬儀の挨拶である。青源味噌の青木社長は喪主挨拶で「本日はまことにありがとうございます」と言った。また堀川産業の堀川社長も同じく「本日はまことにありがとうございます」と言った。九割以上の人が「ました」と言う中でこの二人の「ございます」は嬉しくて泣けた。

社長は表現力を磨き、言葉に敏感になり、社員に模範を示し、社員の文章と言葉遣いを指導する。社長はこの努力を続けるべし。