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染谷和巳の『経営管理講座』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「経営管理講座 331」   染谷和巳

 

 

武士道と日本的経営

経営管理講座

 

先号の藤尾秀昭、近藤建両氏の文章に触発されて『武士道』を読み直した。最終章に「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない。しかしその力は地上より滅びないであろう」とある。著者の予言は憲法改正や武士道に基く道徳教育が行われれば叶うかもしれないが…。

 

 

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武士は商売がうまくできるか

 

明治維新という革命は慶応三年(一八六七)の大政奉還〈たいせいほうかん〉に始まり明治四年(一八七一)の廃藩置県によって完了する。

と明治維新をこんな見方で言う人は他にはいないだろうが、当時の武士層から見ればこのようになるのではないだろうか。

刀を置いた二百万人の武士はどうなったか。新体制が不満で、神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)、西南戦争(鹿児島)を起こして刃向かったが敗れて死んだ武士がいる。

これはほんの一部で大半の武士は新時代に適応していった。

藩が県となったが、藩主がそのまま県知事になり、藩士の大半は県や市に勤める役人になった。藩士は藩から石米の俸禄〈ほうろく〉をもらっていたが、今度は国から給料をもらう公務員になった。県庁の事務職だけでなく、警察官や学校教師あるいは日本国軍の軍人になった人もいる。

こうして地方の武士の多くは流血の惨事に関わることなく、新体制に組み込まれて比較的おだやかに変化に順応していった。

乱を起こした不満分子と同じくらいの比率で、新時代に適応できなかった武士がいた。その代表が幕臣である。政府や中央官庁に職を得た人も少なくないが、旗本御家人とその郎党の多くがわずかの退職金で野に放り出された。静岡に戻る徳川慶喜(十五代将軍)について行った人もいるが、慶喜に給料を払う力はない。そうした武士は食うために百姓になり商人になった。

「武士の商法」という言葉がある。商売をする元武士を嘲笑った言葉である。

商売をするといっても産地の物を仕入れて都市で売る本格的な商人ではない。

身のまわりにある物を並べて売る。衣類、什器、刀槍、家具、掛け軸や置き物など、つまり古道具屋である。金があるから金貸し、お米があるから米屋、お米を使った団子屋、汁粉屋、また薪炭屋、酒屋、そば屋と素人でもできる商売を始めた。

武士は金銭感覚が鈍いので値付けができない。高過ぎて誰も買ってくれなかったり、安過ぎて損をしたり。値引きやサービスができない。また客に対してもみ手でペコペコができない。愛想笑いもできない。固苦しいばかていねいな口ききと態度。あるいは「売ってやる」という横柄な態度。

こうして商売を始めた武士の大半が討ち死にした。生活ができなくなり身寄りを頼って山村に落ち日陰者として糊口〈ここう〉を凌がなければならなかった。

下手な商売をしなければ五年十年食いつなげたものを…。世間は武士(士族)の商法を半分同情し、半分嘲笑しながら眺めていた。

有能な人は新しい仕事につくことができたのだから、商売を始めたのはどこからもお呼びがかからなかった人であり、融通のきかない、要するに使いものにならない人だったのだろう。

こうした人は百姓や職人そして商人の中にもいるが、支配階級の武士がぶざまな姿をさらしたので、世間は滑稽画を眺めるように笑いを噛み殺しながら「武士の商法」と呼んだ。

だがこの一面を見て、武士は商売ができない、経営ができないと断ずるのは早計であろう。

明治時代の国策、富国強兵(殖産興業)を成功させたのは中央政府を牛耳った薩長の下級武士ではなく、徳川の幕臣だったと説く人がいる。

広い視野と明晰な頭脳そして強靱な精神を持つ多くの旧幕臣が政府や官僚に採用され要職を占めしっかり仕事をした。

この人々の働きで日本はわずか四十年たらずで日清、日露の戦争に勝って、世界から大国と見なされるレベルまで駆け上がることができた。

立役者として名は出ないが、この有能な分厚い中間層がそれぞれの分野で立案計画実行して難問を克服した。商売人以上の掛け引きや経営者としての組織運営ができる“武士”が数多くいたのである。

日本が他の後進国と違って逸早く列強の仲間入りができたのは、江戸時代に蓄えられたエネルギーすなわち“人材”のおかげである。長い間眠っていたような武士層の奮迅の働きが近代日本を作った。

 

 

 

武士道が商人道に膝を屈した

 

武士は金勘定が苦手であり、蓄財にはあまり熱心ではなかった。吝嗇〈りんしょく〉を蔑〈さげす〉み、お金に執着するのは汚いことだと思った。欲得は心を穢〈けが〉す。高潔を維持するには金銭から離れることだと思った。「武士は食わねど高楊枝」という武士道精神はここから生まれた。

現実は厳しかった。

幕府は各藩の独立性を認めたが、国のインフラ整備には藩に人物金の供出を割り当てた。たとえば江戸の中心を流れる神田川は住人に飲み水を供給する神田上水として掘られたが、家康の時から始められその後百年にわたって流路の変更や川の拡幅、土手の整備などの工事が続けられた。石高六十二万石の外様大名仙台藩はこの工事に毎年大量の人物金を供出させられ、それは藩の財政を圧迫した。

治水、灌漑〈かんがい〉など自藩のインフラは当然自藩で行ったが、道路の新設や整備、河川港湾の整備や用水や放水路の新設など、複数の藩に関わる工事は幕府が各藩に分担させ、江戸や京都の公共事業は九州東北などの外様大名に負担させた。

さらに二年に一度の参勤交代。江戸屋敷という二重生活の経費、一銭の利も生み出さない藩士の人件費などが年月とともに藩を疲弊させた。江戸時代二百六十年のまんなかを過ぎる頃にはゆとりのある藩は少なく、貧乏に汲汲とする藩が多くなった。農工商の住民から集める税金だけではやっていけず、豪商から借金したり藩士への扶持米〈ふちまい〉を遅らせて青息吐息のやり繰りをしていた。

そうした中で、経済すなわちお金を生み出す才能のある人を登用して“改革”に踏み出す藩が出てきた。地場産業を振興しさらなる倹約を勧め、不労の藩士を農工の生産に携わらせるなどして、借金を減らし財政建て直しをはかった。

その成功を知れば隣藩も真似た。こうして金銭蔑視の武士道は崩れ、「勤勉と倹約」の石門心学が武士の間にも知られるようになり、実際、江戸末期には心学塾に勉強に通う武士が増えてきた。

支配層の武士が支配される商人に負けたのである。

 

 

 

上司の人間性を計るものさし

 

経済中心の社会になり、経営者も社員もビジネスライクになった。勤勉、倹約、約束を守る、素直、誠実を共通の精神とするようになった。かつては口約束で仕事に齟齬〈そご〉がなかったが、契約書が巾をきかせるようになり日本人が生理的に嫌った訴訟沙汰が日常茶飯事になった。日本人同士の狭い社会ではお互いを“信用”することに疑問を感じる人はいなかったが、外国の約束を守らない人との取引が増えたため、いちいち契約書を交わすようになった。

特に大企業は世界中に進出し日本流が通用しない場面に出会い、数字と能率を重視するビジネスライクに傾斜していった。

しかし中小企業はもとより、大企業も本来日本の会社が持っていた美点をすべて捨て去ったわけではない。

経営者と社員、上司と部下の関係は外国企業のように無味乾燥の事務的なものではない。

勤勉は忠誠心に後押しされる。忠誠心は上司に対する信頼と尊敬が醸成する。本来ビジネスや仕事能力と関係ない上司の“人間性”が会社存続成長の鍵を握っている。

上司が私利私欲に走る卑しい人なら、自己保身に躍起の臆病者なら、嘘つき、偽善者、冷酷な人なら、部下は離れていく。

義(忠義と正義)を貫き、仁(思いやり)を行う人なら部下は喜んでつき従う。

今もなお日本の会社の上司は武士道精神の持ち主であることが求められている。

それにしては世論の女性化、社会の女性化が著しい。「女の腐った(私の父が子供を叱る時の常套句〈じょうとうく〉)ような」マスコミがこそ泥を巨悪のごとく「けしからん」と囃〈はや〉し立て世論が「そうだそうだ」と血祭りにあげる。

会社の存続成長のため、経営者や上司はこの女性化社会から距離を置け。そして思いを馳〈は〉せよ。

少し前まで敵であった明治新政府に仕えて実績をあげた旧幕臣の心情を! 潔く散る武士道を鞘に収めて国のために尽くした男たちの自己抑制の精神を!

江戸時代の武士の倫理規範は百姓町人まで感化した。その末裔〈まつえい〉である私たちは今もそれを人間性の尺度として尊重している。日本的経営は商人道の上に武士道が載って成り立っているのだ。