アイウィル 社員教育 研修日程

染谷和巳の『経営管理講座』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「経営管理講座 336」   染谷和巳

 

 

過労死の原因を考察

経営管理講座

 

一つだったらどんなに重くても乗り切れる。問題が三つ一緒に重なると耐えきれず心が折れる。死ぬ人には複合する原因がある。過労死も過労自殺も長時間労働だけが原因ではない。労働時間を短くしても死ぬ人は死ぬ。日本には長時間働いている人が何百万人もいるが一人も死なない。

 

 

    PDF版は右の画像をクリック⇒

 

「仕事が趣味」のどこがいけない

 

過労死事件に関してネットに「働き過ぎのバカ」と書き込んだ人がいる。この人は、働きたいが仕事がない人が世界中に何億人もいることを忘れている。

日本の戦後の奇跡的復興は高度成長期に入り、欧米企業を脅かすようになり、欧米は日本企業の労働者を「ワーカホリック(仕事中毒)」と非難した。家庭を顧みず、健康を害してまで仕事に没入する日本人を侮蔑した。

欧米の文句に弱い日本は、欧米に見習って休日を増やし、労働時間を短くした。

だが「勤勉」は江戸時代から続く日本的経営の柱である。骨に染み込んだDNAが簡単に変わるわけがない。

キリスト教もイスラム教も、食を得るための労働は汚れたものであり、労働の汚れを取るためにキリスト教は日曜日を神に礼拝する安息日として教会に出掛け、イスラム教徒は朝から晩まで一ヵ月間断食するラマダンを行う。

家康の家臣の戦国武士、鈴木正三〈しょうさん〉は後に出家して自分の悟りを庶民に説いた。

「出家すれば成仏できるというものではない。経を読んで荒行を積んでも成仏(煩悩〈ぼんのう〉を断って仏のごとく解脱〈げだつ〉すること)できるものではない。それぞれの仕事に打ち込むことだ。農民は田畑を耕し作物を生み出すことに精を出す。職人も商人も自分の仕事に真剣に取り組む。脇目も振らず集中して行い成果を上げる。そうした日々を送れば成仏する。人間が仏になる(真に幸福になる)方法は、自分の仕事に一心不乱に打ち込むこと、これが本道である」。

“まじめに働けば報われる”これが山本七平が言う“日本教”であり、日本的経営の柱であり、今や日本人の国民性になっているものである。神仏に祈る日時を設ける必要はない。天はお前が正直に勤勉に働いている姿を見て、「よし」と認めてくれる。認められた人が困れば天が助けてくれる。最後は天上に救い上げてくれる。

オイルショックやリーマンショックなどの不景気に見舞われる度に、ぼんやりしてはいけない、のんびり遊んではいられないという気持ちが募り、“勤勉にまじめに一所懸命に働く”が復活した。

「趣味は仕事です」と答える人が少なくない。こうした人は活力がみなぎり表情は明るい。実際時間など気にせず働いている。会社では経営に携わり、また重要な仕事を任されて会社を支えている。

こうした人を「働き過ぎのバカ」と笑えるか。言ったのは欧米人ではない。一日の勤務時間や有給休暇の日数を気にして、イヤイヤ仕事をしている人に違いない。給料のために仕方なく時間と労力を提供している奴隷根性の人に違いない。「趣味は仕事」の対極にいる人で、表情は暗く陰険で行動は鈍く全体にうらぶれている。日本経済を支えている人ではない。国にぶらさがり、国を食いものにしている人に違いない。

日本は年次有給休暇の消化率は世界ワースト一位だという。最高二十日の有給休暇のうち全体では十日しか使っていない。「働き過ぎのバカ」の“証拠”である。

アメリカは年間十五日のうち十二日は使っている。世界で最も有休の長いフランスは最高三十日のうち三十日使っている。それに比べ日本は…という訳である。

しかし日本の祝日は年間十六日でこれは世界で二番目に多い。さらに日本の会社は正月休み、盆休み(夏休み)を六日から十日設けている。これを有給休暇にプラスすれば年間休日数は世界でも上位に入る。有給休暇の残りの日数にピリピリしなくても十分ある。

フランス人キリスト教徒のように労働は悪と考える人にとって、会社勤めは苦行であり、自分の時間を長くすることに窮窮とするのは理解できる。しかしそのようなフランスでも国や会社を支えているのは仕事中心、会社中心の人、喜んで仕事をする人なのである。

 

 

 

自殺は殺人と同じ犯罪である

 

学校でいじめ殺人やいじめ自殺があると、校長が「命の大切さを教えます」と言う。教師は子供に命の大切さをどのように教えているのだろうか。

命は尊い。なぜ尊いのか。

植物も動物も人間も種族保存の本能がある。枯木に花は咲かない。命がつぎの世代につなぐ。命が子を生み育てる。これは機械や道具にはできない。祖先から親から受けついだものを子孫につなぐ力を有する唯一のものが命である。死とは命を絶つこと。命を絶てばそこで継承は断絶する。

だから命は尊い。だから人を殺してはならない。だから自ら命を絶ってはならない。

殺人は犯罪である。尊い人の命を奪うから。同様に自殺も犯罪である。やはり尊い人の命を奪うから。

教師はこのように教えているだろうか。それにしては自殺については、尊い命を絶った本人はあまり責められることなく、その原因となるいじめやパワハラ、過労や長時間労働を“悪”として糾弾する傾向が強い。(倒産や借金苦、あるいは失恋で自殺するケースでは債権者や相手を“原因”として責めないのはなぜだろう。おそらく社員の自殺に対して「原因は会社にある」という前提がある。また「会社は悪」という世間の空気が働いているのだろう)。

自殺の原因はもちろんいいことではない。だが同じいじめ、同じ過労を経験しても百人のうち九十九人は死なない。

人はどういう時に死ぬか。地震や台風などの自然災害で死ぬ。飛行機や自動車の事故で死ぬ。戦争やテロで死ぬ。病気で死ぬ。飢えて死ぬ─。この中に死にたくて死んだ人はいない。

自殺者は死にたくて死んだ稀有〈けう〉な人である。ある種の若者にとって死は甘美な“あこがれ”であった。死の後に未知の何かが開けるような妄想の由〈ゆえ〉である。

私の大学時代の同級生は手首の傷を見せた。「死のうと思った」と少し自慢気な顔をした。しばらくつき合った女性もやはり手首の小さい傷を見せた。二人とも文学青年であった。二人とも太宰治〈だざいおさむ〉の愛読者であった。

私は一度も死のうと思ったことはない。また絶望の淵に立たされて「生きたい」と願う経験をしたこともない。何十年もただ自然に空気の中を歩いてきた。そのため友人たちの手首の傷が理解できない。「おままごとじゃないか。そうでないならもっと深くカミソリを突き入れて本当に死んじまえばいいんだ」と内心蔑〈さげす〉んだ。

死ぬのは怖い。死ぬには勇気がいる。これはウソだ。勇気をふり絞ってバンジージャンプの台から飛ぶ人はいる。勇気をふり絞って崖から身を投げる人はいない。勇気は健全な生命力に宿るものであり、自殺者の心の中で勇気はすでに壊死している。

本当に死ぬ人の精神は完全に壊れている。手首から流れ出る血を見て死ぬのをやめた友人の精神は壊れていなかった。

壊れた精神とは、精神に異常をきたした状態、つまり病気である。自殺者の多くがうつ病と見做されている。うつ病とは喜怒哀楽の感情がなくなる病気。何事にも興味が持てなくなり快不快も感じなくなる。虚ろな表情…。意識があり人の言うことに反応できるが、自らは何もしない。生きる屍である。

銀行や自動車メーカーなどの大企業では、うつ病社員が出ると自宅や病院で治療させる。治りにくい病気である。会社は二?五年間給料を払い続ける。福利厚生の一環である。中小企業では仕事をしない社員に何年も給料を払い続けることはできない。大企業のゆとりと懐の深さを羨ましく思う。

心臓病、糖尿病、癌などを生活習慣病という。偏った食事や運動不足が原因。これと同様に自殺を一つの病気と認定してはどうか。癌同様自殺は遺伝する。自殺の原因を“悪”として叩くより、まず自殺者の遺伝子を調べるべし。原因より本人の責任を問え。

 

 

 

社員の自殺で会社が失うもの

 

死体はお金である。人が死ぬとお金の匂いを嗅いで出てくるのが人権派の弁護士や独立系の労働組合である。

原発事故で仮設住宅に移った九十過ぎの人が死んだ。死んだのは住環境を変えられたせいだと家族が訴えた。東京電力は八千万円近い賠償金を支払うことになった。

過労死、過労自殺は弁護士と労働組合の収入源である。お金を出すのは会社と国である。小さい会社はこのお金のために潰れる。

お金だけではない。会社はもっと大きいものを失う。

(株)電通は社員の過労自殺を受けて、社員手帳から「鬼十則」を削除することにした。

社員の行動規範であり六十年以上の伝統ある言わば“企業理念”である。一人の社員の自殺が会社の精神を骨抜きにしたのだ!