アイウィル 社員教育 研修日程

染谷和巳の『経営管理講座』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「経営管理講座 338」   染谷和巳

 

 

仕事軽減の行く末は

経営管理講座

 

ゆとり教育は平成二十二年(二〇一〇)まで三十年間行われた。当初の思考力を養うという目的は全く達成されず、学力低下と精神の弱化が顕著になった。この国力衰亡の大失敗に学ぶことなく、今度は「ゆとり労働」の船出だ。政府と役人とマスコミと市民総がかりで幻滅の海へ出て行く。

 

 

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働き過ぎを目の敵にする風潮

 

社員二百五十人、年商百億円の地方の建設会社。二代目社長から初代創業者の伝記をいただいた。

創業期は金も人もなく、三百六十五日のうち三百六十日働いたと書いてあった。来年六十周年を迎えるというから創業は昭和三十二年(一九五七)で、敗戦後の日本の奇跡の復興が世界を驚かせている頃であった。

当時日本人はこうした起業家だけでなく、大工場の従業員もホワイトカラーもよく働いた。町の八百屋、魚屋は市場の休みが五の日、三の日と決まっていたので、月三日仕入れが休み、仕入れのない日も店は開けており、夫と妻が交代で店に出るので、一人の休日は月一日半であった。

日本は津々浦々まで活気に満ち、高度成長の足音が近付いていた。

昭和二十九年まで総理大臣を務めた吉田茂が「この目覚ましい復興がなぜできたか解るか」と人に聞いた。「石油や鉄などの資源はないが、日本には無尽蔵の資源がある。それは『勤勉』だ。日本人の勤勉という資源がこの復興をなしとげた」と言ったそうである。

この話をしてくれた出版社の社長は「勤勉は悪いことだと否定する風潮があるが、そんなことをしていれば日本は潰れてしまうよ」と嘆いていた。

現在ほど「働けるのに働かない」人に寛容な時代はない。生活保護を受ける人が史上最多になり、投入される税金は史上最大になっている(平成八年六一万三千世帯、約一兆五千億円。平成二十六年一六一万世帯、約三兆七千億円)。今後まだまだ増える。

「月の残業時間が百時間を超えたくらいで過労死するのは情けない」とインターネットに投稿した大学教授は皆の批判をあび、叩き潰されて謝罪。大学は「このたびの教授の発言は本学の教育方針とは相いれず、しかるべき対応を取る」と発表。教授は”しかるべき処罰“を受けたことだろう。

おそらくこの大学の“教育方針”は残業反対、働き過ぎは非人間的で人を不幸にするから許さない、といったものなのだろう。

カレンダーなどを作っている関西の大手紙工会社の社長が言う。

「うちは五月から十二月まで繁忙期で、秋は特に忙しい。休日返上で夜中まで働いてもらっている。納期があるので無理をしてもらうしかない。監督署の担当者がやってきて『過重労働はやめなさい』と忠告する。善処しますと頭を下げると帰って行くが、この前若いのが来て『改善計画書を出してください』と言う。私はカッとなって『あなた、ウチで働いてくれますか!』と言った。若いのは怒って帰って行きました。一月から春にかけては仕事が少ないので社員に十分休みを取ってもらっている。秋の休日返上や長時間残業は社員も納得している。農家や漁師だって忙しい時と暇な時がある。新聞社や出版社だってあるでしょう。それを役人は杓子定規に“指導”に来る。不勉強ですよ」

厚労省の有識者会議が労働基準法三六条(通称三六〈さぶろく〉協定)の見直しを求めた。

経営者と労働組合が協定を結べばいくらでも残業時間を延ばすことができる。長時間労働に歯止めをかけるには三六協定を変えるしかないということだ。

近々、この法案改正は行われるだろう。やりがいのある仕事を得た労働基準監督署は腕まくりして長時間労働の会社の監視、指導そして摘発に走り回るだろう。

日本の会社は社員を大事にしている。奴隷のように冷酷にこき使っているわけではない。必要に迫られて長時間労働をしてもらっている。この実情を無視して、会社を犯罪者のごとく扱うのは間違っている。会社のためにも、働いている人のためにもならない“規制”はやめよ。会社に任せよ!

 

 

会社の存続と繁栄の最大要因

 

勤勉が日本の資源になったのはそう昔のことではない。

三百年に亘る戦国時代が終焉〈しゅうえん〉し、徳川家康は「金一分=銭一貫文」の貨幣制を敷いた。一貫文は銭千文。金一両は金四分だから銭四千枚に当たる。関西では銀貨が流通した。一分金は銀四朱。一両は十六朱。銀一朱は銭二百五十枚に相当した。

経済が活発になるにつれて金貨銀貨や銅鉄の銭を両替して手数料をとる“両替商”なる商人が発生。江戸時代を通して財をなし、明治時代以後の“財閥”の祖となった。

江戸時代の中頃まで、財布にお金を入れて持ち歩くのは旅をする時くらいで、日常生活の必需品はほとんどの人がツケ買いし、ほとんどの商店が掛け売りをしていた。商品に定価はなく交渉で決まった。同じ商品でもお客によって売り値が異なるのが当たり前であった。商店にはお客一人ひとりの売掛け台帳が並び、年末など年数回合計金額を請求した。もちろん、落語の「掛け取り」にもある大晦日の借金取り撃退やツケの踏み倒しも少なくなかった。

この信用に成り立つ日常生活に革命を起こしたのが日本橋の三越である。

一六七三年、伊勢(三重県)の三井高利〈みついたかとし〉が江戸本町一丁目に呉服店越後屋を出店した。

越後屋は他がどこもしていない商売をした。「現金定価販売、必要な分だけの切売り小売り」である。店に来た人にその場で売って代金を払ってもらう。どのお客にも同じ値段で売る。今では当たり前のこうしたことが当時は奇異であり異端であり、この越後屋はお客が押し寄せるほど繁盛したので、同業者から村八分にあい、いやがらせを受けたほどであった。

越後屋の商法が支持を受けるとこれを見習う店があちこちに現れ、人はお金を持って買い物に行くようになり、掛け売り一本の風習は崩れていった。

五代将軍徳川綱吉の元禄時代(一六八八?一七〇四)の頃である。越後屋だけでなく多くの商人が成功して財を成し、栄耀栄華〈えいようえいが〉を極めた(井原西鶴の「日本永代蔵」は知恵と才覚で成功したこの時代の町人を描いた読物である)。社会全体が浮かれて贅沢に走った。

そして狂乱の元禄の嵐が去って、人々が正気に戻ると、威風を吹かせた大商店の八割は消滅していた。

大阪の呉服屋の番頭をしていた石田梅岩はこの盛衰を身を持って体験し「倹約斉家論」を著した。

その思想はまたたく間に広まり商人だけでなく、職人、農民、武士層や女性までが賛同し共鳴し、また信奉した。

欲望のままに浪費と贅沢をすれば不幸になる。身を慎み、倹約して勤勉に務め、人のために尽くせば幸福な人生を送ることができるという今では常識になっている考え方である。

つまり元禄時代の後から「勤勉」が価値を高め、日本人の精神に定着していったのである。

元禄七年に亡くなった三井高利も子孫につぎの言葉をのこしている。

三井高利家憲

一、単木は折れやすく、材木は折れ難し。汝等協戮輯睦〈きょうりくしゅうぼく〉して家運の鞏固〈きょうこ〉を図れ。

二、各家の営業より生ずる総収入は必ず一定の積み立て金を引去りたる後、はじめてこれを各家に分配すべし。

三、各家の内より一人の年長者を挙げ、老八分としてこれを全体の総理たらしめ、各家主はこの命にしたがうべし。

四、同族は、決して相争う事勿〈なか〉れ。

五、固く奢侈〈しゃし〉を禁ず。

六、名将の下に弱卒なし、賢者能者を登用するに意を用いよ。下に不平怨嗟〈えんさ〉の声なからしむる様注意すべし。

七、主は凡〈すべ〉て一家の事、上下大小の区別無く、これに通暁〈つうぎょう〉する事に心掛けるべし。

八、同族の小児は一定の年限内に於いては、番頭、手代の下に労役せしめ、決して主人たるの待遇をなさしめざるべし。

九、商売は見切り時の大切なるを覚悟すべし。

十、長崎に出でて、夷国と商売取引きすべし。 以上

勤勉という言葉は出てこないが、やはり子孫の永続と家の繁栄のために倹約して家業に専心せよと言っている。三井財閥の礎となる精神訓である。

先号で「鬼十則」、今回は「高利遺訓」をそっくり載せた。

経営者の使命は会社の存続であり、そのため社員や後継者に「かくあるべし」と精神のあり方を教え込む必要がある。

遺す文章は「勤勉」「倹約」とそれに関わることに絞っていくといいだろう。

 

 

祝!!当選 市議会議員 二十四期卒業生 井ノ上剛氏

 

二月五日の奈良県橿原〈かしはら〉市の市議会議員選挙(定数二四名 立候補二九名)で井ノ上剛氏が初当選した。氏は自由民主党橿原市青年部長を務め、自民党公認候補七名のトップ当選だった。

氏は二十四期経営者養成研修の卒業生で、二月号の左欄に『私を睨む戒めの書』を書いている。絶妙の筆遣いで私の本を神棚に上げ、著者をメロメロに喜ばせた。

年齢四十一歳。立ち上げて二年のタスクマン合同法務事務所は数年で軌道に乗せ、後継者を育て任せて、この研修で鍛えた人間力とスピーチ力を生かして、いずれ国政を担う人物になるのは間違いない。おめでとう!