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染谷和巳の『経営管理講座』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「経営管理講座 350」   染谷和巳

 

 

不自然は罪悪である

経営管理講座

 

五十年前と現在では私たちの価値観が一八〇度変わった。平和で安楽な年月が続いたせいであり、「どうしてこんなになってしまった」と嘆くことはない。人は環境の生き物である。動植物は生存の条件が十分過ぎる状態になれば繁殖する。そして増え過ぎると生命力が弱くなり一遍に衰亡する。

 

 

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自然を神とする日本的精神が

 

日本人は不自然を嫌う。自然でないことに反発する。許さない。「不自然じゃないか」と抗議する。

自然とは一日一日の時の流れ、日の出日の入り、太陽と月、天気、季節の移り変わり、山川草木、それに地震、津波、火山の噴火、台風、洪水などの災害である。

私たちは自然を恐れ敬う。山も海も石ころも野獣も〝神〟と見做す。ひれ伏して従う。

これは独立文明圏日本の特色で他国には見られない。キリスト教の西欧などの諸国は、自然は物質であって、生命も魂もなく、まして〝神〟などではない。創造者である神が物質を作り人間を作ったと考える。

日本人の大半が農民であった時代が古代から近代まで続き、そのため自然に順応するのが当然であるという思想が確立し、自然の秩序にさからって生きるという発想は存在しなかった。

山本七平がこう書いている。

「この循環しつつ継続する自然的秩序に即応して労働することが自己とその子孫の継続的生存を可能にし、それなるがゆえに、当時は宇宙を感じられたその自然的継続的秩序に社会秩序もまた即応すべきことが、当然自明のことと考えられたであろう。となれば自然に従うことが『法』であり、これにさからうことが『不法』であるという発想が生まれても不思議ではない。いわば『不自然』は拒否されるべき罪悪なのである」(「勤勉の哲学」)

何度も引用するのでもうウンザリしているだろうが、村上鬼城の俳句「生きかはり死にかはりして打つ田かな」が日本人の日本的思想の根底にある。

動物も人も種族保存のために自然に順応し、自然の恵みを享受しながらも自然の持つ力を恐れて、従ってきた。人は身を守るために衣服をまとい、屋根のある家に住み、火をたいて暖をとり煮炊きをした。こうしてカバやキリンのような丈夫な体を持たない人が自然界で寿命を延ばし子孫に命をつなぐことに成功してきた。

地面を耕して米などの農作物を得ることにより〝食〟の安定を得ることができ、子を育てることができたのだから、自然は神のごとく偉大であり、恐れ敬う対象であった。

自然を敬ったのは農民だけではない。農業の効率を上げるために鍛冶屋、桶屋、荷車作りなど工業に従事する人が出てきた。現在のメーカーのはしりである。また農作物を商う人が出てきた。商人の誕生である。こうした人々も農作物が頼りなので、当然農民同様に自然の秩序に従った。

「不自然は悪」という日本的思想、日本人の精神の柱になっていた価値観が、氷が解けるように解け始め、影を薄くしていったのはいつの頃からだろう。

私が生まれ育った昭和二十年、三十年代はまだ不自然は悪の意識が強かった。他を押しのけ蹴落として貪欲に金儲けに走る人は蔑まれた。二枚舌を使う人、悪口ばかり言う人、嫉妬心が強く相手を恨む人、自分さえよければのエゴイスト、礼儀や挨拶など社会常識を弁えない人などは社会が認めなかった。こうした人を私たちは犯罪者を見るような目で見て、共に手をつないで行くことを拒絶した。

不自然が悪でなくなってきたのは昭和四十年代からの日本の経済成長が深く関わっていると思う。高度成長、経済大国、バブル景気が自然軽視、不自然肯定の価値観を見る見るうちに巨大な怪物に育てあげた。自然を神とする日本人の精神的秩序と日本の社会的秩序が瓦解した。

平成二十三年(二〇一一)の東日本大震災の津波で二万人近くの人が亡くなった。

当時の東京都知事石原慎太郎が「日本人に下された天罰だ」と言って物議を醸〈かも〉した。この言を非難する人が多いが私は「そのとおり」と思った。

自然を恐れず、自然の秩序に従わず、謙虚な心を失い、傲慢になり、豊かな生活を送るうちに心身が弱くなり、なおかつ享楽にうつつをぬかす。こうした民に天が下した罰である。もし昔の日本人ならあの大津波でも被害は十分の一で済んだろう。

 

 

現代人の冷たい民主的価値観

 

もちろん現在も「不自然だ」という非難はあるが、その声に以前のような迫力はない。

それに替わって「差別だ」「人権蹂躙〈じゅうりん〉だ」「弱い者いじめはやめよ」「自由を束縛するな」「民意を尊重せよ」「暴力反対」「正義に反する」といった声が新聞やテレビに連日踊っている。こうしたものが私たちの価値観になって、考え方や行動を規制するようになったということである。

このようなさまざまな価値観は間違いではないし、大事でありそれぞれ意義がある。しかし自然でないもの、不自然なものが紛れ込んでいる。

たとえば差別をなくすための働き方改革の「同一労働同一賃金」。

自然界では虫を小動物が食い、小動物は大きい獣に食われる。獣の糞や死骸がまた虫のエサになる。この輪廻で成り立っている。同種類の中でも病気や体力のないものは群れについていくことができず捨てられて死ぬ。自然は厳しく非情である。自然の秩序は決して弱いものを強いものと同一に扱わない。平等ではない。

同一労働同一賃金は弱者強者を平等に待遇しようとする不自然な政策である。実施してみれば解るが、プラスより有害な面が大きいだろう。

たとえば暴力禁止。一切の暴力が槍玉に挙げられている。子供に対する親のしつけ、生徒に対する先生の教育、選手に対する監督の指導。それが必要なものでも、暴力であれば全て悪と決めつけて糾弾する。

ある社長が言っていた。

「暴力団を締め上げ活動できないようにしているが、政治家も警察も自衛隊もできない裏の汚い仕事を暴力団が請け負ってきた。暴力団を潰したらそれを誰がする。誰もする人はいない。各地で狂暴な中国人暴力団がのさばって警察を困らせているが、日本の暴力団の力を削いでしまったせいだ。クリーンだとかピュアだとか、見掛けはいいが、そんなことを言いたてる奴に限って必要悪のつらい汚れ仕事はしない。キレイゴトだけで世の中は回らない」

確かに博徒清水次郎長一家は「御用提灯」を預かっていた。

口で言っても改めない子供や抵抗する犯罪者には暴力で立ち向かうしかないが、それさえ「いけません」と新日本人が言う。

たとえば政治家やタレントの失言、不倫、麻薬、違法賭博などに大喜びする日本人。

メシのタネだから週刊誌がネタ捜しに懸命になるのは咎められないが、そうしたスクープを見て「けしからん、辞めろ」と叫ぶ。自分も同様のことをしているのに、この時ばかりは正義の月光仮面となって悪者をやっつける。

自然には幅がありゆとりがある。「ま、それくらい、いいじゃないか、人に迷惑かけているわけでもないんだから」と大目に見る。昔の日本人は恕の精神があった。思いやりを持って許してあげるというあたたかみがあった。今は冷たく不自然である。

 

 

国主導で少子化社会を作った

 

日本国が栄え日本民族が優秀と認められたのは、自然を敬い不自然を嫌って、この考えを生活や仕事に生かしてきたからである。

少子高齢化と人口減少で国力が衰え、日本も海面下に沈む南海の小国と同じように消え行く運命にある。

高齢化は寿命が伸びたということで生活環境がいいことや医学の進歩のおかげであり国力にはプラス要因である。

少子化は、女性が子供を生まなくなったからであり、夫婦が三人四人の子を育てる気がないからであり、男も女も結婚しなくなったからである。

これは火山や津波の災害よりも国力を損なう大問題である。この原因は価値観にある。自然を敬い自然の秩序に従うことを辞めて、自由や個人尊重を第一位とし正義、清潔、快楽を第二位とする民主的意識を柱とする価値観を身につけたためである。

男女平等、女性の権利の向上、女性の社会進出歓迎、これを男女共同参画社会基本法(平成十一年〈一九九九〉制定)が推進し、仕事をし酒を飲み賭博をする女性を大量に作り出した。その反面結婚せず、しても子を生まず、生んでも自分の手で育てない母親を作り出した。

国策で〝不自然な女性〟を作り出したのである。自然という神を軽んじ、不自然に傾斜する民族。繁栄と飽食の国の、自然の秩序というたがを外された人がたどる道は暗い。