アイウィル 社員教育 研修日程

 

染谷和巳の『経営管理講座』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「経営管理講座 360」   染谷和巳

 

 

忌諱〈きき〉多くして民貧〈たみひん〉す

経営管理講座

 

もぐら叩きのように出てくる〝悪〟を法律を作ってつぎからつぎへと禁じれば社会がよくなり、人が幸福になるという考えは「人が殺し合う戦争をなぜするの?」と聞く小学三年生レベルのアタマである。五十年後の子孫の不幸と悲惨を想像できない弱者優遇大衆迎合の軽薄ポピュリズムである。

 

    PDF版は右の画像をクリック⇒

 

弱者の上げる金切り声が勝つ

 

能力が低い人や怠け者が大きい顔をしていられる時代になった。

ある社長の話。

「それってパワハラでは?」あるいは「それパワハラですよね」と言ってくる社員が十人に二人はいると言う。会社では高く買われていないし、まわりからも認められていない社員が、自分には国家の庇護があるんだというふてぶてしい顔で言ってくる。アイウィルのような厳しい研修には断じて参加しない。

社長が「みんな出ているんだから」と下手に出て諭すと「パワハラ研修に出ろと命じるのもパワハラになるのでは」と怯まない。

ついに厚労省は「パワハラ防止法案」を国会に提出すると発表した。来年の国会で審議される見通しである。目的は企業にパワハラ防止の取り組みを義務付けること。またパワハラが発覚した場合、うやむやにせず厳正に対処することや、企業内に〝相談窓口〟を設置することを要請する。

パワハラ防止法の骨子案によると、パワハラとは、

①優越的関係に基づいて上司が部下の心身に苦痛を与える

②業務上必要かつ適切な範囲を超えた言動により心身に苦痛を与える

③就業環境劣悪なることにより働いている人の心身に苦痛を与える

ことであると定義した。企業はこの定義に則ってパワハラの具体例を挙げて社員に教育し、またパワハラ行為には厳しい罰則を設けることを求められる。この〝義務〟を果たさない場合は労働局や労働監督署が調査指導を行い、悪質な企業はブラック企業として公表、それでも悔い改めない場合は認可の取消しや営業禁止といった処罰をする。

この流れに対して産経新聞の天野健作記者が「東京五輪あと六〇七日」でこう書いている。「パワハラかどうかは、受け取り手の感じ方次第という側面もある。それまで互いの関係をどう築いてきたか、同じ言動が◯にも×にも変化する。人間関係の線引きを法規制に頼らなければならない現状は、ネット旺盛時代を映し出しているようで、何だかむなしい」。

新潟の空手道場〝拳心館〟館長近藤建氏の〝武心塾だより六四号〟の一節。

「陸上競技場で一〇〇メートルダッシュをやっている後輩に先輩が『もう一本』と言うと後輩は『疲れてもうダメです』と答えた。先輩は『甘えるな!』と怒ると思ったが『そうか』と言っただけ。今の時代嫌がることを無理にさせると〝パワハラ(暴力)〟になるので強制的にさせることはできないとのこと。日本人をビニールハウスの野菜のように病虫害ゼロ、最適品質管理のもとに育て、肉体的免疫力だけではなく、精神的にもひ弱な人間にしている」。

こうした疑問や反対の声も少なくはないが、弱者のあげる金切り声が圧倒的に強力で、世論を変えるまでにはならない。

犯罪者、狂気の麻薬中毒者や、伝染病患者などの厄介者も人権はある。差別してはならないと言われればうなずいて賛同する。「おんなは女性蔑視の差別語だからつかってはなりません。『人』『女性』と言ってください」と抗議をされれば頭を下げて従う。

女性社員が上司から厳しいことを言われて泣き、日報に「心が壊れる」と書くと社長は女性社員の肩を持ち、上司をたしなめる。

社会に貢献しない者、マイナスの存在、国や人の手助けがなければ生活できない者、このような弱者が身の程を弁えずに威張るのがパワハラ時代だ。

 

 

規制禁令で人はよくならない

 

「忌諱〈きき〉多くして民貧す」(本田濟〈わたる〉講述『老子講義録』〈致知出版社刊〉第二十一講より引用)。

忌諱とは人が嫌がって避けること。老子がここで言う忌諱は国がいろいろ出す禁令や予防措置。憲法や基本的法律だけでは治まり切らず、国や省庁はさまざまな禁止や規制の法令省令を出す。

こうした忌諱があまりに多いと国民はがんじがらめにされ、息が苦しくなり暗くなる。

貧するとは収入がなくて生活が苦しくなることだが、これは同時に〝心が卑しくなる〟こと。礼節に欠け公徳心(社会の秩序を守り子供の模範となる)を失い、エゴイスト、犯罪者、落伍者になることを意味している。

「貧すれば鈍する」ということわざがあるが、貧乏すると人は愚鈍なのろまになる様子をいう。「衣食足りて礼節を知る」の反対である。

禁令は大は刑法などの法律から小は地方自治体や小さい町などまでが発令する「これはだめ」「あれもだめ」集である。町議会も国も町令、法律という形で〝民のために〟これを作っている。

規制は「この範囲内で行動を許すが、この範囲外での行動は認めない」という許可認可制で、公官庁の仕事の大半はこれに尽きる。

小は危険地域への立入り禁止、短期間の交通規制、もうすぐ実施される「飲食店は従業員数や店の広さで喫煙禁煙を区分する」法令など。

国土交通省は土木建設業界や運輸業界に対して厳しい規制を設け、違反者は認可取消しなどの処分を行っている。これらの事業者は何度も役所に顔を出し頭を下げて仕事が有利にできるよう努めている。文科省は公立校だけでなく私立の学校に対しても睨みを利かせ、方針に従わない学校には補助金減額打ち切りなどを行っている。

そして最近「男女共同参画社会基本法」(平成十三年)、「個人情報保護法」(平成十五年)という日本の文化と伝統と美風を根底から覆す法律ができた。この二つの法で日本人の精神が弱くなり冷たくなり腐り始めた。

さらに厚労省主導の残業時間規制、同一労働同一賃金を盛り込んだ〝働き方改革法案〟が通り、外国人労働者大量受け入れのための〝改正入国管理法〟が成立した。そしてついに来年は〝パワハラ防止法案〟を厚労省は国会に提出する。今や厚労省は公官庁の中でも最もサンサンと陽のあたる輝かしい役所になった。

平野に道ができ、広い道がだんだん狭くなり、荷馬車が通れない幅になり、やがて田んぼの畦道のように細くなり、人は用心深くバランスをとりながら歩かないと奈落の底に転落してしまう…。

社会に忌諱が多くなると、人の行動範囲が狭められ、禁止の立札に囲まれて生活することになる。「こんなことまでお上が口出しすることないだろうに」と文句も言いたくなる。

民貧すは本来の明るい豊かな心を失うことである。心がいじけて悪くなることである。

現代の日本人の心は貧しい。

明治時代に大森貝塚を発見したアメリカの学者モースは「日本に貧乏人は存在するが貧困は存在しない」と言った。

これを藤原正彦が週刊新潮の「管見妄語」でこう解説している。

「欧米での貧困は惨めな生活や道徳的退廃など絶望的な状況を意味するのに、日本がまったくそうでないことに驚愕したのだ…モースばかりか十六世紀以降訪日した多くの外国人が日本人の類い稀な道徳、礼節、品性を称賛してきた」。

海辺の小さい粗末な家に住む半裸の土人が皆礼儀正しく誠実で思いやりがあり明るい笑顔を浮かべている|。それを見て欧米人は「日本は神に愛される国」と感動し、日本という国を好きになり尊敬するようになった。

こうした民族を作った一つの原因が日本が歴史的に忌諱が少ない国だった点にある。そのため貧乏だが決して「貧ではない」豊かな心を持つ民族になったのではないだろうか。

政府や公官庁は国民のために「よかれ」と思って禁令、規制による予防措置を多産している。それが将来社会と個人を悪くするという予測は全くしていない。

 

 

心身弱化した人の末路は不幸

 

家族や友だち同士が食事をしたり乗り物に乗っている時は会話の時間である。コミュニケーションタイム。それがどうだ。それぞれスマホを眺めて人の顔を見ない。

産経の天野記者が「人間関係の線引きを法規制に頼らねばならない現状は、ネット旺盛時代を映し出している」と言っているが、スマホの画面ばかり見ている人は心が冷たくなり、少し厳しいことを言われると強い人は「何を!」と歯向かい、弱い人は「いじめられている」と感じ、「パワハラだ」と訴えるのだろう。禁煙よりも「スマホ禁止」の〝禁令〟を作るほうが民を貧にしないと思うが。

近藤建氏の指摘するごとくスポーツ選手が「疲れた」と練習を拒むことが許されるなら(おそらくどの種目もどのレベルでも同様だろう)、選手は弱くなる一方だ。

東京オリンピックで日本は期待数の半分しか金メダルを取れない。