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畠山裕介の『人と話の交差点』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「人と話の交差点 298」  畠山裕介

 

二枚の設計図面

 

-ナンバー2(25)-

 

関ヶ原の役で、徳川家康は実質上の天下人となった。その時から家康の頭には、常に島津と毛利の存在がこびりついた。

死に臨み、家康は「わが遺体を西に向けよ」と遺言を残した。死んでも島津、毛利から徳川家を守るという王者の気概を見せた。

嘘かまことか、こぼれ話がある。

家康は、島津と毛利はいつか造反すると読んでいた。それに備えて、江戸に向かう要所に巨城を作り、また築かせた。熊本城、姫路城、大阪城、名古屋城、そして最後の要害が天下の嶮たる箱根山である。

家康の恐怖の予感は二六〇年後、薩長同盟の倒幕で実現する。家康の卓見おそるべし。

城は戦国大名にとって、家そのものであった。藩の政事の決定機関であった。守備の要であり、運命をともにする絆の証であった。

〝城を枕にともに討ち死に〟が戦国主従の血の掟であった。

ゆえに城作りの名人は、将軍や戦国大名から一目も二目も置かれた。

ここからが本論である。

当時の城作りの三大名人は加藤清正、黒田孝高、藤堂高虎とされた。その高虎に、現代にも通じる美談が残されている。

二代将軍徳川秀忠は、京都二条城の改修総責任者に高虎をあてる。高虎は外様大名である。その人物が徳川の権力と権威の象徴たる二条城を作りかえる。それ自体が異常である。高虎が家康・秀忠親子にいかに信用されていたかが、この一事でわかる。

高虎は渾身の知恵を絞り、二条城の設計図を描いた。いま私たちが訪れる二条城の偉容は、高虎の作である。

高虎もそのできばえには大満足だった。が、その図面を描いた直後、高虎はもう一枚の図面を作る。それはいかにも粗末で、品性に欠ける図面だった。

不審に思った家臣が理由を聞いた。その答がふるっている。「もし案が一つしかなく、秀忠様がそれに賛成した場合どうなるか。その城は私が作ったことになる。だが、案を二つ出せば、秀忠様はどちらかを選ぶことになる。その瞬間、二条城は秀忠様の作品になるのだ」

高虎のこの謙遜と譲歩を、徳川家への忠誠と見るか、功利主義者のおべっかと見るか。

高虎は家康に仕えるまで、七人の主に仕えている。戦国の世はより強い主君に仕えなければ、誰も生き延びられない時代である。

高虎は二条城改修の命を受けた瞬間、二図面作成案を思いついたに違いない。

現代のわれわれに、高虎の策略を論難する資格はないのではないか。

主人を七回も変え、そのいずれからも厚い信頼を勝ち得た。戦国とは、そういう時代だった。