コラム『講師控え室』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
2015年1月号「講師控え室 71」
京都の伏見稲荷神社に「重軽石」という名の石がある(後で解ったが重軽石はここだけでなく、各地の神社にあるそうだ)。
漬け物石くらいのこの石を、願い事を念じながら持ち上げて自分が思ったより石が軽ければその願いは叶い、重ければその願いは叶わないと言われている。
二十代の頃初めてこの石に向き合った。
私は欲張りで、胸の中には星の数ほども願い事があった。
やりたいことも、手に入れたいこともたくさんあり、先々どんな自分になりたいか、あれもこれもと、いろいろな夢を描いていた。
そんな時、旅先の京都で、突然、この石に出会った。
その時、私は戸惑った。それは、願い事とは何かをわかっていなかったせいである。
願いが叶う、というのは、結果にすぎない。それは自分で努力して、手に入れるものだ。ただ夢を見ているだけでは、決して実現はしない。願いは叶うのではなくて、叶えるものなのだ。
そのためには、自分で行動を起こさなければならない。行動するためには、何をすべきか考え、計画する必要がある。
とすれば、自分の中に溢れているたくさんの夢を整理し、優先順位をつけ、目標を定めなければ。
行動するための身体は一つしかなく、何を為すべきかを考える脳も一つだけ。
聖徳太子ではない身では、一度にあれこれ手を出すのは、虻蜂取らず、二兎を追うものは一兎を得ずになってしまう。
あの時、重軽石は、私が思ったよりも”ずしり“と重かった。私の願いは叶わない、ということだった。
しかしそれは当然のことだった、と思う。
私は自分の中に溢れているたくさんの願い事の中から「ただ何となく」一つを選んで、重軽石を持ち上げた。その態度は、本気の願いに対するものでは絶対になかった。神様に却下されて当然だった。
あの時の感触を、私は今も鮮明に思い出す。
そのほろ苦い思い出は、私に大切なことを教えてくれた。それはつまり、願いを叶えたければ本気にならなければならないという、当たり前といえば当たり前のことである。
五十代になった今、また伏見稲荷の重軽石に再会した。私の願望は小さい一つのことに集約された。
「アイウィルという定年のない会社であと三十年仕事を続けたい」。
手にした重軽石は軽石のごとく軽かった。(冨樫景子)