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畠山裕介の『人と話の交差点』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「人と話の交差点 312」  畠山裕介

 

松平容保1 会津の誇り

 

-ナンバー2(39)-

 

かつて会津と長州には、長く深い遺恨があった。

時は幕末。ペリーの黒船以来、徳川幕府の屋台骨は大きく揺らいだ。幕府二六〇年の威光は風前の灯。

京都では尊皇攘夷〈そんのうじょうい〉の嵐が吹き荒れた。その先駆けが長州である。尊皇攘夷の実態は要するに〝幕府をぶっ潰せ!〟であった。

その時、京都守護職の任に就いたのが会津藩主松平容保〈かたもり〉である。時に二八歳。白面の美青年だった。入洛の折には、京都の若い女という女がひとめ見たさに押しかけたという。

京都守護職。京の治安を守る職である。その任務は、孝明天皇と将軍家茂〈いえもち〉を守ること。そして攘夷派をぶった斬ること。

京都守護職は火中の栗を拾う役であり、幕府側の誰もがいやがった。譜代大名でさえ逃げた。

会津藩には逃げられない事情があった。藩祖保科正之〈ほしなまさゆき〉は、神君〈しんくん〉家康の孫にあたる。さらに天下に知れた名君である。正之が残した家訓の第一にこうある。「将軍家に忠義を尽くすこと。もし将軍家に逆らう藩主が現れたら、……わが子孫ではないから従わなくてもよい。(意訳)」

容保は藩祖の遺訓を忠実に守った。伝染病にかかり、明日をも知れぬ身を抱えながら、京を守った。十四代将軍家茂、十五代将軍慶喜〈よしのぶ〉に全身全霊で仕えた。

家茂も慶喜も、有事の将軍としては有能ではなかったらしい。それも仕方あるまい。なにせ二五〇年以上もいくさがなかった。武士だって、将軍だって戦い方を忘れる。

鳥羽・伏見の戦いで、幕府側は新政府軍に圧倒された。大坂へ退いていた慶喜は決心する。

「負けよう」

夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ帰ってしまった。大将の敵前逃亡である。

慶喜は容保に随行を命じる。慶喜は容保の胸中を思い測っただろうか。容保の部下たちは何も知らされずに、血と銃弾の中でのたうちまわっているのである。

慶喜にとって、容保が戦場に残り自分だけ逃げるのは都合が悪いのである。

容保はしかし、慶喜の所業に一切口を挟まず、絶対忠誠を貫いた。戦場におけるナンバー2の任務をまっとうした。

慶喜はひたすら恭順した。江戸城に入らず、水戸で蟄居〈ちっきょ〉した。容保は慶喜から江戸追放を言い渡される。要するに〝捨てられ〟た。貴人、情を知らず。

容保はここでも一切の反論、抗弁をしない。容保のこの男ぶりはどうだ。

こうして鶴ヶ城の籠城戦、白虎隊の自刃などを通じて、会津と長州の因縁が生まれた。