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畠山裕介の『人と話の交差点』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「人と話の交差点 313」  畠山裕介

 

孝明天皇と松平容保の主従関係

 

-ナンバー2(40)-

 

松平容保はいわば薪を背負って、燃えさかる京に入った。京都守護職とは、そういう役目であった。三百余藩の大名はみんな逃げた。

容保は精強を誇った会津の全兵力の大部分を京都に派兵した。ために、藩内の防御力は一気に手薄になった。会津敗北の主要因はここにあった。

容保は京都守護職として、孝明天皇にもよく忠節を尽くした。容保という人は愚直なまでにまっすぐな人柄であったらしい。

孝明天皇はひとめで容保の人柄に好感を抱いた。初対面の場で、「陣羽織にでも仕立てよ」と緋〈あけ〉の御衣を下賜された。

ある雨の日突然、容保は御所での馬揃えを命じられた。孝明天皇の勅諚〈ちょくじょう〉とあるが、容保失脚を企む公家たちが発したにせの勅諚であった。

しかし日頃から鍛練を怠らぬ会津藩兵はみごとな馬揃えを行った。これを見た孝明天皇は大いに賞賛された。

この日、容保が纏〈まと〉っていた陣羽織は天皇から賜った御衣を仕立て直したものだった。それに気づいた天皇は、さらに喜ばれたという。

また容保は孝明天皇の名で江戸に帰るよう命じられたこともある。しかしその直後に天皇から容保に直接手紙が届いた。きわめて異例のことである。

「朕〈ちん〉は会津をもっとも頼みにしている」

孝明天皇の真筆である。これを御宸翰〈ごしんかん〉という。

孝明天皇はニセの勅諚を勝手に出す自分の家来の公家たちを信用しなかった。容保ひとりを信頼した。そして容保は天皇の御心をくみとって、過激な公家たちを朝廷内から一掃。ますます天皇の信任を厚くした。

容保は体が弱く、京都でもたびたび病臥〈びょうが〉する。すると孝明天皇はみずから平癒を祈願し、神饌〈しんせん〉の洗米を賜ったりした。

英邁な孝明天皇は残念ながら若死にをする。その後、大政奉還、王政復古の大号令とあり、鳥羽伏見の敗戦によって、あろうことか会津藩には「朝敵」の汚名が着せられた。

まっ赤に燃え落ちる鶴ヶ城。白虎隊の自刃。そして残された婦女子たちの落命。明治維新は会津藩をいけにえとして成立したというのは一面の真実である。

革命の血祭りにあげられた会津藩であり、容保だった。しかし孝明天皇の御宸翰は終生持ち続けた。小さな筒に入れて、風呂に入るときだけ外して、いつでも身につけていた。

家族の方たちも亡くなるまで、それが何なのか知らなかったらしい。容保は慶喜の時と同様、一切弁明することなく、歴史の真実一片をただ竹筒に入れて持ち続けた。