アイウィル 社員教育 研修日程

 

 

 

<畠山裕介の新刊>

畠山裕介の最新刊『仕事を決める和文力』
畠山裕介の最新刊
『仕事を決める和文力』
人の心を動かす文章を書く方法とは

お求めは全国の書店またはアイウィルまで

畠山裕介の『人と話の交差点』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「人と話の交差点 320」  畠山裕介

 

保科正之 ほしなまさゆき 一分 いちぶん

 

-ナンバー2(47)-

 

江戸城には、天守閣がない。

三代将軍家光の時代まではあった。その後火事で失われ、現代にいたるも再建されていない。

これに大きく関与するのが、初代会津藩主保科正之。

正之は家光の異母弟だった。母が卑賤の出のため、正之の存在は極秘にされた。幼いうちに高遠藩保科家に養子に出された。ここでの養父母のあたたかい養育が、正之の人格形成のうえで大きかった。

某日、家光は目黒へ鷹狩りに出る。成就院という寺に立ち寄り、僧と茶飲み話をする。

「ところで高遠藩の正之さまは、将軍家のじつの弟君なのに、なぜご不遇でおられるのか……」

僧は目の前の武士が将軍とは知らない。家光は家光で、弟正之の存在など寝耳に水であった。

家光はすぐに正之と会って話した。正之は礼儀正しく、謙虚であった。長年、弟の忠長との不仲に悩んだ家光は、正之の爽やかな人柄に強くひかれた。

家光は正之を引き立てた。山形藩二〇万石。会津藩二三万石とつぎつぎに加増した。

「今後保科家は代々萌黄もえぎ色の着用を許す」と家光は幕閣満座の中で言い放った。萌黄色は家光がとくに好む色で、ハレの場では常に愛用した。他の大名や幕閣は自然、この色の使用を遠慮するようになる。

そこへ正之の異例の扱い。それは将軍家と同格扱いを意味した。

家光は正之を江戸に呼び、幕府の運営も任せた。正之は家光の期待以上に有能だった。

さらに正之の賢明は、将軍家の弟という驕りを露ほども見せなかった。いかなる時も臣下の礼を崩さなかった。

正之は家光が心から信頼できる唯一の肉親となっていた。

やがて家光は病を得て、床に伏す。正之を呼び、こう諭す。

「肥後よ、宗家を頼みおく」

〝正之よ、息子家綱を頼むぞ〟の意。正之は生涯の感激を得る。

ときに家綱は十一歳であった。

これを『託孤寄命たくこきめい』という。出典は論語。

父に死なれ、幼くして即位した君主の補佐を頼み、国政を委ねることをさす。

以後二三年間、正之は誠心誠意で家綱を補佐する。

正之は会津藩の藩祖でもある。正之が遺した『会津家訓十五箇条』の第一条にこうある。「会津藩は将軍家を守護するべき存在であり、藩主が裏切ることがあれば、家臣は従ってはならない」

なんとも強烈である。

兄であり主家である家光は、絶大の信頼を寄せてくれた。自分は絶対の忠誠で応える。これが正之の一分いちぶんであった。

そんな時、江戸で大火が…