畠山裕介の『人と話の交差点』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「人と話の交差点 323」 畠山裕介
孔子が夢に見、憧れた
周公旦
-ナンバー2(50)-
「私は周の文明を、もっとも高く評価する」と孔子は言った。
周とは、古代中国の理想国家と言われた周王国のことである。
周王朝の国づくりは
周公旦は文王の子であり、武王の弟である。二代目の成王にとっては叔父にあたる。
幼い成王が即位した時、摂政として国政の実権を握って国の基礎を作った。周王朝の制度や文物は、ほとんど周公旦によるものである。
周の東方には強大な
文王は仁政を行い、東西の賢者を広く求めた。その中のひとりに「太公望」
武王が即位して、周と殷が戦った。周公旦の補佐よろしきを得て、兄武王は殷を滅ぼす。
この頃から武王はノイローゼ症状を起こし、ついに病に倒れた。周公旦は先祖の霊に
「願わくは、わたくし旦を武王の身代わりにしてくださいますように……」
その後、祭文を箱にしまい鍵をかけた。そして保管責任者に固く他言を禁じた。
武王は死んだ。
「周公は成王の位を奪うつもりだ」と風評がしばしば流れた。当然、成王の耳にも届いた。
やがて成王は成長した。周公旦は政治の大権を成王に返還した。摂政の時は王の座に就き、成王を見下ろしていた。その座も降りて臣下の座にすわり、臣下の礼をもって成王に仕えた。
だがトップとナンバー2の関係は、それでも難しい。成王の心奥には「わしにとって代わるつもりか」の疑念が渦巻いていた。周公旦は周を離れ、楚の国に逃れた。
数年後、成王は書庫を検分する機会があった。幼時、重病にかかった記録と、周公旦の祭文があった。「王はまだ幼少の身。もし神慮に背いたとすれば、すべて私の責任です。罪はどうか旦に下されますよう……」
この時も祭文はいっさい人目に触れさせなかった。成王は泣いて不明を詫び、周公旦を呼び戻した。
ナンバー2の立場は、トップとの関係においてたえず緊張を強いられる。どんなに信頼されていても、一度疑われたらおしまいなのである。
用心深いというのは、男性的な深慮遠謀である。