畠山裕介の『人と話の交差点』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「人と話の交差点 324」 畠山裕介
分際を知る
-ナンバー2(51)-
〝カミソリ〟と呼ばれた。頭が切れた。判断力と行動力に富んでいた。相手が誰でも、言うべきは言った。
後藤田正晴。警察庁長官として官僚のトップを極めた。
よど号ハイジャック事件、三島由紀夫割腹自殺事件、三里塚闘争、あさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などの難局を指揮してきた。その凄腕を、田中角栄は高く評価した。
長官辞任後、第一次田中内閣では民間人ながら内閣官房副長官に抜擢された。田中の懐刀(ふところがたな)として辣腕(らつわん)をふるった。「この内閣は後藤田で保っているんだ」と田中は言った。
昭和四八年、徳島県から参院選に出馬。多くの選挙違反者を出し敗北。元警察トップの金権腐敗と徹底的に叩かれた。後藤田は私財を投げうち、運動員を庇(かば)った。
ダメージは親分田中にも波及。金脈問題を追及され、首相を辞任した。しかし田中は「わしのことは気にせんでいい。それより次は、徹底して地元を歩け」と励ました。田中の人気の源泉は、このあたりの人情の機微にある。
後藤田は田中の単なる腰巾着(こしぎんちゃく)ではなかった。ある時、後藤田の同席する場で、田中が「警察なんてチョロイもんだ」と口をすべらせた。それを聞いて、後藤田が答えた。「総理、あなたはいま昇り龍だからいいが、下り龍になったら相手を見てものを言わないと足をすくわれますよ」
人の話をあまり聞かない田中だが、後藤田の苦言はよく聞いたらしい。「あいつが言うんじゃ、しょうがない」が田中の口癖だった。二人は阿吽(あうん)の呼吸で繋がっていた。
その後も後藤田は田中の影の名代をこなした。
大平政権、中曽根政権にあって、一貫して田中派の影響力を保持した。
ある時、後藤田に自民党総裁選に出馬を求める気運が盛り上がった。後藤田は即座に「ナンバー2は、トップの地位を狙ってはいかん」と言い放った。そして毛沢東と周恩来を引き合いに自説を述べた。
周恩来は決してトップになろうとしなかった。ナンバー2に徹した。だから毛沢東も安心して任せることができた。林彪(りんぴょう)や鄧小平らの競争心からの敵意も招かなかった。
「……わしもトップを狙う野心がないから、〝中途入社〟の自民党でも居る場所があった」
そしてきわめつきがこの台詞。「〝床の間〟を背にして座る人物には、おのずと『格』というものがある。私はその器にあらず。自分の分際は知っている」
田中が脳梗塞を患い、竹下などが派閥を作り専横を極めても、ひとり田中派を背負った。