畠山裕介の『人と話の交差点』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「人と話の交差点 325」 畠山裕介
劉邦に天下を獲らせた男
-ナンバー2(52)-
劉邦(漢の高祖)には蕭何、韓信、張良の三人のナンバー2がいた。一方の項羽には父の代からのナンバー2范増しかいなかった。その范増にも途中で「小僧と謀をともにはできぬ」と見限られ、逃げられている。このナンバー2の差が、天下を劉邦にもたらした。
張良は戦略の達人だった。敵と戦う前に勝てる戦略を立て、そのとおり勝った。
韓信は百戦百勝の大将軍と呼ばれた。戦場に韓信が姿を見せた瞬間、敵軍は敗北を直感した。
蕭何は宰相として劉邦の留守を預かった。後方の政治的安定に心を砕き、兵站に万全を期した。
この三人はいずれもナンバー2の資格は充分にあった。しかし歴史は蕭何を選んだ。
蕭何ナンバー2説を後押しする逸話がある。
劉邦軍が秦の都咸陽を陥した時、部下の将兵たちは先を争って宝物庫を襲った。金銀財宝を漁った。
これは戦勝軍の特権であり、ある程度大目に見られた。
蕭何は財宝や女には目もくれなかったという。書庫などに保管されている法令文書をかたっぱしから接収した。これは大きな意味を持っていた。
これら文書類により、天下要害の地、人口の多寡、各地の戦力、人心の動向などが手に取るようにわかった。のちに漢王朝の政治や国家運営を軌道に乗せるうえでも、大いに役立った。
蕭何は劉邦のナンバー2として、この時点で五年先を見ていた。
そして兵站。蕭何は劉邦の幕下に入って以来、常に兵站を担当した。兵站とは兵士の補充、兵器武器の輸送、そしてなにより食糧の配送をさす。
極論すれば、戦争の帰趨は兵站にある。これは軍略の常識である。
かつて大東亜戦争の末期、大本営は恐るべき訓令を発した。「食料、銃器の類は現地調達。不足分は大和魂で補え!」。つまり日本軍には、戦地で戦う兵士に送る物資がもうなかったのである。
無数の日本兵が死んだ。敵の銃弾ではなく、食べるもののない飢えによって餓死した。
項羽と劉邦の「楚漢の戦い」は三年以上に及んだ。劉邦軍は負け続けた。逃げに逃げまわった。小戦闘では負け続けた劉邦だが、決定的には負けなかった。最終的には勝った。蕭何の兵站のよろしきを得たからである。
さらに蕭何は遠征続きの劉邦の心がどう動くかを常に読んでいた。トップの孤独は、側近への疑心を生む。それは留守居役の自分に向きやすい。蕭何は常に報告を欠かさなかった。見せかけの私心で小銭を貯め、「せこい奴よ」と劉邦を安心させた。
蕭何の人間通ぶりを学べ。