畠山裕介の『人と話の交差点』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「人と話の交差点 329」 畠山裕介
天下人の謀臣1
-ナンバー2(56)-
家康が天下をとるまでは、徳川四天王が組織の中核だった。本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次の四人である。
いずれも武断派である。無理もない。戦国の世は暴力の時代であった。いくさに強くなければ生き延びることはできない。
家康が天下を治めた。いくさがなくなった。そうなると、戦争屋は要らなくなる。
徳川四天王は一気に影が薄くなる。家康からのお呼びもなくなる。
世が平和になると、文治(ぶんち)派が台頭する。その筆頭が本多正信である。正信はいくさはできないが、幕政全体を掌握する頭脳を持っていた。その頭脳明晰を家康は高く評価し、老中として重用した。実質上のナンバー2である。
ナンバー2としての正信の真価は、常に徳川家第一を貫いた点にある。
その思考と言動は、徳川家百年の大計を見ていた。その長期的視野は、徳川幕府二六〇年を見渡しても神君家康に匹敵しよう。
たとえば対豊臣家の問題。
関ヶ原の役後、家康は西軍大将石田三成の嫡男重家の扱いに困った。常識的には、どんなに幼少でも殺害。後顧の憂いを除くためである。
だが正信は殺さぬことを強く進言。〝五〇年後、世間は家康公の情の深さを知るだろう〟と見抜いていた。
方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件。
秀頼は先祖供養のため方広寺を建立する。鐘に彫られた銘は「国家安康 君臣豊楽」。
正信には豊家潰滅の絶好の機会だった。「家康の名を切断するもの。豊臣の繁栄を願うもの」。
屁理屈に近い言いがかりは、正信の謀略である。こうして豊家をして立たざるを得ない立場に追い込んだ。
大坂冬の陣。秀吉自慢の大坂城は難攻不落の備えで徳川軍を拒む。ここでも正信の謀略は冴える。
正信は和議と引き換えに、大坂城外濠の埋め立てを勝ち取る。そして外濠の埋め立て終了と同時に、一気に内濠まで埋め立ててしまう。
天下に名だたる大坂城も、濠がなければ丸裸同然。豊家滅亡の原因となった。
豊臣恩顧の加藤清正、福島正則。
関ヶ原で豊家を裏切り、徳川につく。おかげで家康は天下を盗った。正信は二人を大盤ぶるまいで、大々名に取り立てた。
正信は「満つれば欠ける」人心の機微を知り抜いていた。やがて清正も正則も改易(かいえき)の憂き目を見る。
正信の働きぶりをみると、やたらと謀略が多い。歴史家や歴史好きに正信を嫌う人も少なくないのは事実である。
だが、正信はおそらくそんな評価は一顧だにしないだろう。正信には徳川家、家康公がすべてだったのだ。