株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 406」   染谷和巳

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 失敗と挫折は成長の糧

築地本願寺の会議室で会社説明会。三十歳だという社長はダブルのスーツに金縁の眼鏡、青年実業家然として自信に満ちており「月億の単位の金額を動かせる会社です」と話した。十数名が参加していたが数名が帰り十名がその場で簡単な筆記試験を受け全員合格通知をもらった。幸か不幸か──。


社長が詐欺師の会社に入った


六年生の二月、卒業できることがはっきりしたので就職試験を受けた。

教材会社の日本ソノシートと教科書の光村図書出版。どちらも数人しか採らないところ五十人以上来ていた。佐藤愛子の夫が社長の日本ソノシートは筆記試験で落ちた。この会社は翌年倒産した。光村図書出版は面接まで行ったがやはり落ちた。

高校も大学も希望する所に一発で合格していたので、この不合格は長らく眠っていた劣等意識を甦えらせた。

就職課で、当時大卒初任給平均二万円のところ三万円の会社を見つけた。「ここを受けたい」と言うと就職課の担当者は「電話工事の会社? やめたほうがいいよ」と忠告。

荒田はその関東宅内工事に入社。荒田同様高給につられて入った大卒の新人が十人。荒田同様落ちこぼれの変わり者ばかりだった。

当時はまだ電話は無線電波通信ではなく、有線のアナログ通信だった。電話局と電話機を2Cという細い銅線が二本入った被覆線でつなぐ。

新しいビルは端子盤があり、床下に電話線の配管があり、穴にスチールの鋼線を通して2Cを引き出し、そこから机上の電話器につないだ。配管のない古い建物は端子盤から線を引き、壁や床に線を這わしてつないだ。床は直接線を踏ん付けられないようプロテクターでカバーした。

宅内工事は2Cの電話線を電話機までつなげる仕事で、道具はトンカチ、ニッパー、ドライバー、スチール線など。使う材料は2C、プロテクター、ステップル、ガムテープ。荒田たちの仕事は単純な工事だった。

一週間の技術研修が終わり、ナッパ服で腰に工具をぶら下げて自転車で仕事に出た。床を這いずり回る汚れ仕事だがおもしろかった。仲間が十人いるので、毎晩飲み会。辞める人はいなかった。

築地電話局裏の二階建て仮設プレハブが事務所。一階は資材倉庫で二階が社員の集合場所。壁際に長机をぐるっと置き二人ずつかけた。社長と女性事務員は近くの小さい事務所にいた。

二ヵ月後仮設プレハブの空き地に大型バスが入った。バスは座席が取り払われ二段ベッドが二列三脚計十二人が寝られるよう改造されていた。社員はそれが何なのか誰も知らなかった。

七月初旬、仕事場が突然長野に変わることになった。バスはその時の社員の宿泊用に準備されたものだった。南信飯田市の外れの高台にある旧養蚕場を安く借りることができたのでバスは一度も使われず姿を消した。

会社が東京銀座から長野の山奥になぜ変わったのか社員は知らなかった。マイクロバスで十人全員が山の飯場に入った。

今思うと辞める人がいなかったのが不思議である。「やめておけ」と言う親もいただろうに。親に言われてももう大人だから素直に言うことを聞く人はいなかったのだろう。荒田も「飯田の伊賀良(いがら)という所に会社が移った」と言い、親は何も言わなかった。みな世間知らずの常識知らずの恐いもの知らずの愚か者だった。

仕事の道具がシャベルとツルハシに変わった。道路脇に穴を掘る。シャベルを二本、カニのはさみのように使って一メートル以上の深い穴を掘る。そこに木の電信柱を立てる。夕方、汗と泥で汚れた体を天竜川で洗って飯場へトラックで戻る。土方である。

社長は飯田市内のホテルにいるらしい。代わって現場監督に社長の弟二人が送り込まれた。二人とも目つきの悪いごろつきで大卒社員を理由なく威嚇(いかく)し威張り散らした。社員は避けて近づかないようにしたが、うじうじといじめられて暗くなっている人もいた。それでも辞める人はいなかった。

七月の給料が出たので居酒屋で五人で飲んだ。トラックで三人、軽三輪で二人。荒田は軽三輪。帰りに三人が乗ったトラックがバックで電気屋のショーウィンドウに突っ込んだ。

ガラスが割れ、大きいテレビが二台破損した。町の人が集まってきて五人を取り囲んだ。

当時はまだ飲酒運転に寛大だった。特に田舎はみな平気で飲酒運転をしていた。死傷事故でもないので損害賠償だけで済んだ。社長が話をまとめ一人十万円、一緒にいた荒田たち二人も含め五人で五十万円で決まった。

荒田は事情を話し「十万円貸してくれ」と親に頼んだ。親に一度も、ものを頼んだことのない子が初めて頭を下げた。親はすぐ金を貸してくれた。

五人が十万ずつ用意し五十万円を社長に渡した。



社長は親会社と社員を騙した


電柱の穴掘りにも慣れた八月十日頃だったと思う。

電電公社の検査が入った。養蚕場の資材置き場に大量の屋外用電話線が積んである。宅内用の2Cより太く頑丈である。これから電信柱から固定電話を引く家まで配線する予定の半年分の資材である。タテヨコ四〇センチ、高さ一八センチのダンボール箱。それがタテヨコ八列、高さ十列合計六四〇箱積まれていた。

総務を任されていた香川君が箱の中段を足で蹴った。崩れた。中は空洞だった。

検査に立ち会っていた社長の弟二人が「まさか」という顔で香川を見た。

中の三二〇箱を抜いて外壁の三二〇箱だけ残して検査を通ろうとした。おそらく弟二人と香川の三人で実行したのだろう。香川が暴露した。一箱原価二千円として六十四万円の横領。

香川は十人の新人のうちの一人だが、飯田に来てからは穴掘りに参加せず、社長の意思伝達係として社長と行動を共にする時間が多かった。荒田たちは一番出世の男だと認めていた。

仕事から戻った荒田たちは香川から話を聞いた。弟二人は萎れていた。社長と連絡がとれないと言う。

翌日、社長と女性事務員が逐電したことがわかった。香川は荷物をまとめてタクシーでさっさと山を降りた。荒田たちもそれに倣った。弟二人だけが後に残った…。八月分の給料はなかった。

築地から長野の山奥に仕事場を変えられたのも、社長が同様の悪事を働いたからだろう。

ずっと後になって解ったことだが、社長は社員から預かった五十万円を着服。電気屋には小切手で払った。小切手は不渡りになり、電気屋は裁判所に訴えた。社長は逃亡して見つからず、代わって運転していた大久保君が被告になった。

連絡を取り合っていた仲間からこの話を聞いた。おとなしくて人のいい大久保が貧乏クジを引いた。その顔をなつかしく思い出したが、荒田は何の力にもなってやれなかった。

さらにずっと後になって荒田が中山競馬場から駅へ向かって歩いていると、銭湯帰りらしい洗面器を持ったアベックに出合った。あの社長と女性事務員だった。荒田が「あれっ」と声を出すと社長も相手が誰か解ったらしく、うんうん頷いて「じゃあ、また」と逃げるように去って行った。

風呂のない安アパート住まい。あれから二年もたつのに、細面の目鼻だちのくっきりした保志という女性は社長と同棲している──。

社長には妻と赤ん坊がいた。新入社員十人は四月末に大宮の外れの社長の家に招待されたことがあった。小さい建売住宅の六畳間で宴会が開かれた。奥さんが料理を作ったり運んだり甲斐甲斐しく働いた。十人はご馳走になり、よく飲みよく騒いで心地よく帰った。

不信を抱きつつも十人が会社を辞めなかったのはこの心あたたまる経験があったからであろう。

あの奥さんと子は今どうしているだろうか。



最低最悪のスタートの経験


社長と女の後をつけてアパートを突き止め、当時の仲間に知らせればよかった。しかし五十万円の弁償金を得られなかった電気屋は来るかもしれないが、あの仲間は一人も来ないだろうと荒田は思った。荒田自身が、こんな奴に頭を下げて謝らせて何になる、時間の無駄だと思ったのだから。

仲間も八十歳だからまだ生きている。あの体験をどう思っているか聞いてみたいものだ。

荒田は貴重な体験をしたとプラスに考えている。学んだことは、

①金に汚い社長も、社員を食いものにする社長もいる。

②同年代の仲間がいるとモラール(仕事の意欲)が高くなる。

③土方を一ヵ月すると土方の体になり土方の考え方になる。

④困った時に助けてくれる親の存在は有難い。

⑤失敗、挫折は成長の糧になる。

さい先のいいスタートだった。


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