株式会社 アイウィル

03-5800-4511

染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 426」   染谷和巳

PDF版はここををクリック

高橋先生から学んだ事

前にどこかで読んだことがあると気付く人は、よく本を読んでくれている人である。社長に会って話を聞く機会が減ったので〝在庫〟が底をついている。そのため「また同じことを言っている」となる。今回は先号のT先生の「作文の授業が少ない」という手紙に刺激されての続編である。


読み書きは記憶力と違う能力

荒田の中学校の国語の先生は高橋龍太郎という名の方だった。結核で片肺を切除しており、右肩が極端に下がっていた。笑った顔を見たことがない。怒った姿も見たことがない。白面痩身無表情の人で、今生きていれば一一〇歳を超えているからずっと前になくなっているはずである。

高橋先生はよく作文の宿題を出した。教科書の詩の解説の後には詩を、俳句の解説の後には俳句を作ってくる宿題を出した。

一学年は七組あり三百人の生徒がいる。先生は全員に同じ宿題を出し全員の作品に赤ペンを入れた。

優秀作を教材にした。作文は朗読し、詩や俳句は黒板に書いて、どこがどう優れているかを説明した。

三百人の作品のうち一点だけを採りあげた。その生徒のクラスだけでなく全クラスにモデルとして紹介して授業を行った。

優秀作に選ばれる回数が多いのは荒田と女生徒のTさんだった。

中間テストと学期末テストの成績は百番まで名前と点数が廊下に張り出される。トップから七番までの顔ぶれはだいたい決まっている。各クラスの級長である。テストの成績のいい人が級長になる。

荒田の点数は十番台、Tさんは四十番五十番台で目立たない。それが高橋先生の国語授業によって全生徒が知る存在になった。

女生徒は荒田を尊敬の眼差しで見、男生徒はTさんを「紫式部」と呼んであこがれた。

後にTさんは同じクラスのI君と結婚して荒田を驚かせた。高校時代もその後も「ずっとつき合っていた」とI君から聞いた。近所に住んでいてよく知っているTさんを荒田は〝おとなしい太目の子〟としか見ていなかったが、I君には崇拝してやまない聖女に見えていたのであろう。

後になって気付いたのだが、高橋国語は荒田に三つの大事なことを教えた。

一つは記憶力と文章力は違う能力であり、連動していないということ。

荒田は〝覚え〟が悪い。漢字の書き取りはいつも半分以上書けなかった。社会や理科などの覚える科目も苦手であった。

秀才は覚えるのが得意で、試験前の追い込みは、漢字や英単語や公式、年号、化学記号などを覚える勉強に没頭した。試験問題は授業で習った範囲から出ると決まっているから、全部覚えれば満点が取れる。

当時からテストは記憶力のいい人に有利な問題ばかりで、荒田のような鈍才は高得点を取ることができなかった。

絵は見たものを線と色で画布に表現する。記憶力とは違う部分の脳の働きによる。

文章も見たもの、聞こえたもの、感じたものを言葉をつないで表現する。やはり記憶の脳とは違う部分を使うのだろう。もちろん頭に入っている言葉が少なければ拙(つたな)い文章しか書けない。これは〝話す〟にも共通している。「幼ない」は対等の会話が成立しない人、話が通じない人のことをいう。

ある期末テストで高橋先生は「辞書を使ってよい」という前代未聞の通達をした。三百人の生徒はとまどった。「カンニングをしていい」ということである。

三冊も四冊も机に辞書を積みあげる生徒もいた。

問題はいつもの二倍以上の量が出た。荒田の国語辞典は表紙が擦り切れていた。辞書は引き慣れている。

時間内に最後の問題までたどりついた人は少なかったようである。

高橋先生が各クラスで結果を発表した。百点をとったのは荒田ひとり。いつも高得点の秀才たちではなかった。

荒田は小学生の頃から本をよく読んだ。漢字にはふり仮名があるので字は覚えない。意味がわからない字はすぐ辞書を引いた。辞書を手放さなかった。

荒田はずっと「覚える」「暗記する」という脳を使わなかった。よく使ったのは「理解する」「調べる」部分である。これにより読む力が伸びた。

読むのベースは調べるであり、これが書く力に直結している。

これが高橋先生から学んだ大事な一点である。


文章のよしあしは人が決める

二つ目は文章の優劣、巧拙は自分には解らないということ。人が評価し、人が決める。

文を書く、絵を描くは話すと同じ表現力の範疇である。話すは相手がいる。一人だったり多勢だったりするが相手のいない話はない。書くも読み手がいる。読み手に理解してもらい、心を動かしてもらうために書く。

書いたものを自分で読んで「これは名文だ」と自賛してもあまり意味がない。

日記や人生史は自分のために書く。人に読ませるために書くのではない。だから人に言えない恥や秘密、心の憂さを書いていい。

一般人の日記は「日付、天気、何時に起きて何を食べた。どこへ行った。誰と会った」という日常の記録の繰り返しで、読んでためになるもの、おもしろいものは少ない。

日記は自分だけのものだから、心の煩悩を存分にぶちまけてもいい。しかしそれを文章にする筆力がないから書かない。書けない。だからつまらない。

江戸時代の武士はよく日記を付けたらしい。国会図書館の地下には武士の日記が山と積まれていると聞いた。当人の死後、家人が殿様の江戸屋敷やお城に寄贈したのであろう。江戸時代が終った後、屋敷や城が整理され、家臣の日記は国に引き渡された。それが国会図書館に残っているのだろう。

時代小説作家や歴史研究者にとって貴重な資料である。しかし一般人は時間をとって読む気になれない。内容は大半が日常の生活記録であり、文章は人に読ませる域に達していないからである。

日本には〝日記文学〟というジャンルがある。他人が読んでおもしろくてためになる、小説に類する読物になっている。

紀貫之の「土佐日記」、菅原(すがわらの)孝標女(たかすえのむすめ)の「更級日記」、和泉式部の「和泉式部日記」など。それに小説、物語とはいえない、どちらかというと日記に近い随筆、清少納言の「枕草子」や吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」など。

こうした古典はみな文章がいい。読み手は引き込まれ考えさせられ「うーむ」と唸る。

おそらく少年や少女の頃、まわりに「いい文章だ」と認めてくれる人がいた。それが自信になり、自分の書くものは上等なものだと思うようになった。長じて筆者は人に読まれ高く評価されることを期待して書くようになったのに違いない。

高橋先生が荒田の作文を優秀作に選んだ。荒田は「へぇー」と思った。理由を説明されてもよく解らなかった。それまで自分が文章がうまいなど一度も思ったことがない。自分は頭に浮かんだことを書いただけである。

この経験から、文章のよしあしは自分ではなく人が決めるものだということを高橋先生から学んだ。

小中学校の国語の授業では、先生方はこの高橋先生のまねをしてほしいものである。


人を育てる巧手認めるほめる

三つ目は〝認めるほめる〟の威力である。

具体的客観的にほめると威力は倍増する。本人に直接言うより、たとえば高橋先生が荒田の作文を学年の全生徒に「この作文は優れている」と紹介したように、第三者に間接的にほめるほうが本人の感激は大きい。このほめ方は人を変える力、人生を決める力がある。

この「事件」がなければ荒田は違う人生を歩んでいた。

大学の時は図書館で日本文学、世界文学の全集を読み、級友と二人でガリ版刷の同人誌を出し同級生に配った。

二十五歳の時からずっと「書く」仕事をした。雑誌社で記事を書いて給料をもらった。新聞、雑誌に連載して原稿料をもらった。本を出して印税を頂戴した。

今はもうこの経営管理講座くらいしか書いていないが、かつては毎月今の十倍の量だった。

自分の書いたものを、たとえ間接的であってもお金を出して読んでくれる人がいるということは〝信じられない〟喜びであった。あなたのファンだと言う人がいると、神棚に祭りたいほど嬉しかった。というのも自分の文章の何がどういいのか本人は未だに答えられないからである。

荒田は高橋先生の魔法にかかったまま人生の大半を送ってきた。

指導者は「優劣をつける」ことをためらってはならない。優れている人を引き立て、劣っている人を励ます。人の長所を見抜いてほめることで石ころが玉になる。〝認めるほめる〟が育成の巧手であることを高橋先生が教えた。



<< 前のページに戻る

<経営管理講座バックナンバー>


<< 前のページに戻る