株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 405」   染谷和巳

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 たまには恥と失敗話を

荒田の「私の人生史」は人には見せられない。恥と失敗と悪行の記録であり、読めば人に「こんなひでえ奴だったのか」と蔑(さげす)まれるし、鬼嫁に殺されかねないからである。経験が人を作る。失敗も人を作る。読まれても〝人間性を疑われない〟部分を紹介する。他山の石にもならないだろうが…。


貧乏は我慢強い人間を作るが

またまた「子のいうこと八九きくな」である。

親は子のわがままを許してはならない。子にせがまれても心を鬼にして「だめだ」と断れ。子の言いなりになるなという教えである。

荒田は親に叱られたことがない。しつけ教育もされなかった。親は三人の子に食わせることに精一杯で朝から晩まで働いた。たまの休みはくたびれて一日寝ていた。

荒田は親に物をせがんだことがない。「◯○ほしいか?」と聞かれると「いらない」と答えた。

中川の川辺でモクズガニをとっていて足の裏にガラスを刺したことがある。親には黙っていた。腫れて膿んだ。びっこを引いて学校へ通った。小学二年の時である。

担任の先生が見つけて保健室に連れて行き、たまたま来ていた学校医が傷口を洗って消毒し包帯を巻いてくれた。その女医は「もっと早く医者に行かなきゃだめよ。こんなになるまでほおっておいて!」と荒田を叱った。

その包帯が黒ずむ頃傷はなおった。

荒田のランドセルは皮ではなく紙紐製。グローブも皮ではなく布製。いずれもすぐほぐれすり減った。そのボロを修理しながら屑(くず)になるまで使った。

クラスには紙製、布製さえ持っていない子が何人もいた。そうした子は口をきかず笑わず、仲間の後で小さくなっていた。

紙であれ布であれ親が用意してくれたのだから荒田は恵まれている。親が無理をして買ってくれたのも解っている。だが皮のランドセル、皮のグローブが普通で、普通以下は三割。通信簿の5段階評価でいえば荒田はマイナス1に属した。マイナス2の「劣る」の上の「やや劣る」であった。

劣等感という感情はマイナス2の人よりマイナス1の人のほうが強くなるようである。

中学校は学校給食がない。荒田は麦飯弁当だった。銀しゃり弁当の子に劣等感を抱いた。クラスには弁当を持たせてもらえず昼になると教室を抜け出し昼休みが終る頃まで戻ってこない子もいた。飯が食えれば上等である。

しかし荒田は麦飯を恥じた。麦をひっくり返して白米に見せる努力をしたがあまりに麦が多いので諦めた。家まで歩いて十五分程だったので、昼になると家に戻って弁当をとり一時前に戻ってくる。一時過ぎに教室に入って先生におこられたこともあった。中学卒業まで、昼は毎日家に戻った。

荒田は親に「麦を入れないでくれ」とは言わなかった。貧乏なのを知っていたからである。

荒田は一度たまの休みの父親を近くの池に釣りに連れ出したことがある。父親は釣り糸をたれたままずっとねていた。荒田が口をきいてもほとんど反応しなかった。

以来「遊んでくれ」「連れてってくれ」とせがむことはなかった。

「子のいうこと八九きくな」の小言からいえば荒田は言わない子であり、親は「だめ」と拒む必要のない親である。貧乏がこの格言に当てはまらない親子を作った。

貧乏は子をいじけさせる。劣等感を強くする。しかし親がまじめなら、子は物を欲しがらない我慢強い子になる。

これは自慢できる話ではない。

荒田の長所は我慢強いこと。すぐ救急車を呼ぶ人をヨワムシと嘲笑(わら)う。荒田の短所は我慢強過ぎること。手遅れになることがある。

〝多臓器不全〟の死亡率は八十

八%といわれている。肝臓や腎臓など複数の臓器が腐って働かなくなる。死亡欄の死因によく多臓器不全と記されている。

我慢し過ぎて腹膜炎をこじらせた。医師が身内を呼んで「多臓器不全です」と言って首を振った。荒田の妻娘は「おなかまっ黒の人ですからどうぞ最後はきれいにしてください」と覚悟の一言。

腹に穴を開けて管で吸い出すのでは間に合わない。医師は荒田の腹を上から臍下まで切り下げて膿を出し十二リットルの塩水で臓器を洗った。

後は臓器が機能を回復するかどうか運命にゆだねるだけ。

以後五十日荒田は何の処置もされずに腹を開けたまま放置された。退院。タテの不気味な切腹傷が残った。十年前である。「痛い」と泣いて訴える人をばかにするが、死ぬまで我慢してまわりに迷惑をかける荒田は大ばかである。


母は鬼の形相で荒田を叱った

荒田はビジネス書を何冊か出している。

読者の一人から「自分のことは全く書きませんね」と言われたことがある。

最近は少し書くようになったが、かつては人から聞いた話や新聞雑誌で読んだ話ばかりで、確かに自分の体験話は出てこなかった。

文字にして人に読んでもらうような経験がない。「私は」と人に教えられることがない。恥ずかしくて話せないことばかりしてきたからである。

荒田は四年で大学を卒業できなかった。

四年間何をしていたか。

英語ドイツ語や「〇〇概論」の教養課程の授業はおもしろくなかった。一、二度出て後は欠席。図書館でおもしろい小説を読みふけった。家庭教師のアルバイトで小遣い銭はあった。学校の近くに後楽園競輪場があり、都電で通った。アパートの六畳間を借りて〝学習塾〟を開いた。悪友の酒くさいたまり場になり半年たらずで引き払った。四年間で取った単位は体育の柔道と専門科目(哲学)のお目こぼしのいくつかだけだった。

四年間何をしてきたか。

大学に入ってすぐ車の免許を取った。

当時父親は朝六時前に巣鴨のとげ抜き地蔵の近くにある中央卸売市場豊島市場へ行き、青果物を自転車付きのリヤカーに満載して、明治通りの坂を下りて池袋六又(むつまた)ロータリーまで坂を昇る、を毎日繰り返していた。

荒田は中学生の時から日曜日や夏休みはリヤカーの後押しをさせられた。自宅は金町にあり、電車で池袋へ行き、北池袋の店まで歩いて着替えをして坂下まで行って待機する。下りてきた父親のリヤカーの後ろを押して坂を昇る。店に戻ると午後は引き売りの後押し。大きい籠を付けた自転車で配達もした。高校の時は夏休みは連日手伝った。毎年九月のテストの点数はガタンと落ちた。

市場の仕入れは八割がトラックになっていたが、リヤカーがまだ二割いた。それで父親のリヤカーをトラックに変えようと思った。

免許を取り軽トラックを買った。

父親は楽になった。荒田は楽にならなかった。

仕入れが済む(十一時)頃、電車で市場へ行き、運転して品物を店に降ろす。それから学校へ行き、夕方店に戻って手伝い、夜トラックを市場の駐車場へ運んで、電車で家に帰る。父親が車の免許を取るまで二年間これが続いた。

四年生の十二月の暮れに「学校をやめる」と言った。

父は喜んだ。父親は労働力と後継ぎが欲しかった。荒田が上の学校へ行くと言う度に不機嫌になった。「だめ」と言わなかったのは母親が荒田の学習机を買い、三畳の勉強部屋を増築して〝ベンキョー〟を応援しているのを知っていたからである。

母親は血相を変えて怒った。

「何を言うの! せっかく入ったんだからちゃんと出なさい! 授業料は出してやるから」

母親は店を手伝わせ過ぎたことに負い目を感じていた。それで卒業できないのだと思った。荒田は手伝いのせいではないことを知っていた。まじめに授業に出れば四年で卒業できたことを知っていた。しかし荒田は母親の一喝でシャンとなった。

五年生になり新入生と一緒に教養科目の授業に出た。一年生は老学生を「こんなふうにはなりたくない」という目で見た。

二年間授業に出て〝卒論〟を出して卒業証書を手にした。四年制大学は二年間びっしりやれば卒業できることを荒田は知った。

母親は二十一歳の息子に「子のいうこと八九きくな」を行った。


親は子の甘えと逃げを許すな

大学の門の外に靴磨きのおじさんが座っていた。二十円の立札。よく台に靴をのせて磨いてもらった。小太りで荒田に似ていた。荒田は自分もいずれこんなふうに落ちぶれるのだろうなと思った。

昨年、東北の県立高校の校長をしていた同級生がなくなった。香典を送った。奥さんからお礼のはがきが来た。

「荒田さんの本を読んでは、学生の頃一緒に文集を作った話をしていました。主人は荒田さんの成功を心から喜んでおりました」。

荒田は成功したとは思わないが、失敗だったと悔む人生ではなかったと思っている。子の甘えと逃げを許さなかった、あの時の母の断固たる意志が荒田の行く道を変えてくれたと思っている。


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