株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 422」   染谷和巳

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美に対する感性を磨く

昨年二月の経営者研修全期同窓会で「経営と美醜善悪」のテーマで話した。初期資本主義の経営者が労働者を機械道具として扱い、金儲けと勢力争いに狂奔 きょうほんした醜い姿を紹介した。自然や芸術作品に美を感じない人に経営者の資格はない。会社を美しく経営しようと努める人が真の成功者になる。



自然の美と芸術家が生出す美

裕福とはいえない家にも床の間がある。軸の画や書が掛けられ壺などの置き物が飾られている。

武家をまねて商家や農家が書画骨董に親しむようになったのは江戸時代からだろうか。

南信飯田の近くの妻の実家は七十年前から骨董屋を営んでいる。〝のんきや〟の屋号で今も二代目が店を開いている。

京都や名古屋などの城下町の古道具屋、骨董店で仕入れて、近隣農家や商店を客に商売している。先代はこの仕事で四人の子を育てあげたのだから、儲けの濃い商売なのだろう。刀剣や茶碗は数十万数百万円でも買う客がいる。一ヵ月に二、三人に売るだけで生活できるようである。

京都の古刹 こさつの昔の僧が書いた行書の掛軸がショーウインドウに飾ってある。

車は通るが三州街道から山の方へ入った田舎道。まわりに家がちらほらあるがあとは山と田んぼと畑。ショーウインドウを見る人は滅多にいない。それでも客はいる。

日本人の美術品好きを証明する一つの例である。

どこの家でも玄関を入れば絵の一枚くらいは飾ってある。花びんに花がいけてある。人に見せるためもあるが、住人が身近に美を感じるためが一番の目的である。

日本は山川草木花鳥風月の自然の美に恵まれている。そうした環境で育つので〝美しいものを美しいと感じる〟感性が磨かれる。

その美を手っとり早く表現する方法が〝絵画〟である。画布に形を描き色をつける。自分が感じた〝美〟が自分の心を通して新しい美を生む。

荒田の中学時代の同級生二人は定年退職後、油絵を始めた。時間はあり余っている。お金はかからない。日曜画家は老人にはいい趣味である。二人で一緒に写生に行く。

中学時代、二人は図画工作の授業は遊んでいた。まじめに絵を描いたことなどない。だから作品になっていない。

その二人が今やお互いの絵の構図や色に対して意見を交わしている。一緒に美術館に足を運び、◯◯展に出展もしているそうだ。荒田がみても魅力を感じない凡作だが、二人が自分の作品に誇りを持っているようなので残酷な批評はひかえている。

美には二種類ある。自然の美と芸術家が生み出した美である。

真剣に絵を描くようになった二人は表現に苦労するにつれて画家の作品の美がわかるようになった。審美眼が磨かれたのである。

モーツァルトなどのクラシック音楽に感動する人は、若い頃から何十回何百曲も音楽を聴いて感性を養った人と自分で楽器をひいて演奏できるレベルになった人のいずれかである。この体験のない人はいくつになってもクラシック音楽は雑音でしかない。

絵も同じ。画集や美術館でいい絵を十年二十年何百枚も見てきた人は絵に対する美的感性が養われる。また自分で何年も絵を描き続ければ、名作の美を素直に受け入れることができるようになる。

自然の美があふれているせいもあろうが、日本には優れた画家が多い。あまりに数が多いのでまだ正当に評価されていない人がたくさんいる。世界の美術史に名を残す人が五百人いるとすると、その名画家と肩を並べる作品を残している日本の画家は五千人いる。これは荒田の自論で、嘲笑されることもあるが、荒田は何と言われても説を曲げない。

ある会社の社長室。

正面に大きいモジリアーニのリトグラフ。「一五〇分の七八とあるでしょ。本物の石版画です」と社長。横の壁に棟方志功の青と緑の「森」の絵。応接室にも棟方志功の大きい弁天様のリトグラフ。入口にはシベリア抑留画家香月 かづき泰男の「月夜」の絵。黄色い半月の下のほうに月の黄色がたれている異様な絵。

リトグラフは数十万円だがこの絵は三百万円だという。

この社長は投資目的で絵を買っているのではない。好きな絵を身近に鑑賞したいから大金を投じて飾っている。


本物でなくても感性は磨け

美に対する感性を養うには。

飾る絵、鑑賞する絵は本物である必要はない。真作贋作 がんさくを争うのは絵をお金と見做す人の世界の話で、私たちはそれが美しければいい。目の前の絵は贋作でも印刷でもいい。

荒田は二十四年前(二〇〇〇年)に「週刊アートギャラリー」という画集を買った。月末に本屋に行きその月の四冊を受け取る。一◯◯冊、二年以上で完結。一冊五六〇円。

失敗したと思った。ルノワール、ゴッホの一号二号はまずまずだが号を重ねるにつれて色が悪くなる。説明のため絵を一ページに三枚四枚小さく入れる。おまけに解説文がよくない。

契約したから最後まで受け取りに行ったが、十号あたりから受け取ってもパラパラめくるだけで、まん中を過ぎる頃からは本を開くこともしなくなった。以来一〇〇冊はガラス戸の中に収まって手に取られたことがない。

荒田は自宅から近いこともあって上野の国立西洋美術館によく行った。中学生の頃から雑誌に折り込まれた名画に感心して収集して自作の画集を編んだ。絵をみる力は養われている。「アートギャラリー」はその期待を裏切った。美術鑑賞は印刷でもいいがよくないものもあるということ。

印刷で感動した絵。

安野光雅 あんのみつまさの「洛中洛外」。二〇一九年一二月まで八年近くに亘り月一回、産経新聞に連載された絵である。

新聞紙というあまり質のよくない紙に印刷された水彩の風景画は十分美しかった。

京都の寺や洛外の丹後、大江山、天の橋立の風景などどれをみても「いいなあ」と思う。

光雅は絵本作家として成功し、二〇二〇年九四歳でなくなるまで二〇〇冊以上の画集を出している。司馬遼太郎の大作「街道をゆく」の挿画でも有名である。絵につける短いエッセイもうまい。海外での評価が高く、世界中にファンがいる。まさに〝巨匠〟である。

さらっとした風景画であり、自分にも描けそうな親しみやすい絵なので、しかも五十年以上に亘り描き続けた多作の画家であるため、〝世界の巨匠〟という感じがしない。

これは年月を待つしかない。五十年後消えていく人の中に燦然 さんぜんと光る星ひとつ。水墨画の雪舟や浮世絵の葛飾北斎と並ぶ風景画の巨匠として名を残す人、これが安野光雅だと荒田は思っている。

今年、安野光雅「洛中洛外」カレンダーを買った。新聞の絵の二倍の大きさのA4である。小さいが見飽きない魅力がある。


美しいものが豊かな心を育む

軍人も政治家も経営者も、人の上に立つ指導者は美に対する感性を磨かなければならない。

自然を美しいと感じる心はもとよりだが、人の心を通して表現された絵画や音楽に美を感じる感性の持ち主でなければならない。

人は醜い心の人には従わない。自分の上司が醜い考えと醜い行動をする人だとわかったら部下は逃げていく。給料のため我慢することはあっても部下の心は冷めて離れる。

もし社長が「美なんて経営と関係ない」と言い、一幅の絵も飾らずモーツァルトも聴かず、毎日「売上げと生産性の向上」を力説するだけの人なら、人材は去り、意欲ある若い社員は集まらず、会社は空洞化していく。

美を感じる力のある人は心が豊かな人、人間としてゆとりがある人である。相手の美点を見て欠点を許せる人である。

もし部長が規則規律一点張りで部下の小さい欠点を許さずに追い詰めていけば、どんな優秀な部下も腐って辞めていく。

こうした部長がいるなら社長は「管理監視は君の仕事ではない。いい所を認め、ほめて部下の意欲を喚起するのが仕事だ。君は心が貧しい。心を豊かにするためモーツァルトを聴きなさい。いい絵をたくさんみて美を感じる心を養いなさい」と指導すべし。

社会人としてあるいは社員として〝読み書き〟が必須の能力であるのと同様に、絵をみる、絵を描く能力が重要なのではないか。

学校教育で図画工作はつけたし授業、都立高校では選択科目、大学では教養課程にない。

教育の一本の太い柱になるはずのものがつま楊枝のように細い。

これがそのまま会社に、社会全体に許容されている。

美しく生きることに武士は命をささげた。「そんなことしてたら商売にならない」と社長は言う。確かにそのとおりである。

しかし〝美を尊重する〟意識を持ち、それを社員に示す姿勢を見せないと人がついてこない。



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